
1953年当時の中西[その試合の写真ではない]。打球の飛距離は公式記録ではないが、1953年8月29日の中西の一発は「NPB史上最長本塁打」ではないかと今でも語り継がれている
数々の逸話のうち、最大級の「伝説」
1950年代後半に黄金時代を築いた西鉄ライオンズ(現
西武)の主砲・
中西太には、数多くの伝説がある。
曰(いわ)く、内野手がジャンプし、外野手が前進した打球がそのままスタンドに入った。曰く、ファウルチップを打った直後、摩擦熱で焼かれたボールの焦げ臭い匂いが周囲に漂った。曰く、ブンと大きく鳴るスイング音が観客席まで届いた。曰く、強烈なライナーが直撃して病院送りとなった遊撃手が「とてもプロではやっていけない」と自信を失い、そのまま引退してしまった……。
当然、誇張も含まれていることだろう。しかし「怪童」と呼ばれた中西が、信じがたい伝説を残すに相応(ふさわ)しい打力を発揮したことは疑いようもない。自身が球史に残るスラッガーだった
青田昇(
巨人ほか)も、中西を「日本が生んだ最強打者」と断言している。
その凄まじさは、数字の上でも明らかである。高卒1年目から打率.281、12本塁打を記録して新人王に輝いた中西の才能は、打撃フォームを改造して挑んだ2年目の53年に、早くも大輪の花を咲かせた。
この年の中西の成績は、全120試合に出場し、打率.314、36本塁打、86打点。本塁打と打点はリーグトップであった。加えて俊足でもあり、盗塁数は36個を数えた。つまり中西は、20歳の若さで「トリプルスリー」を達成したのである。打率もトップと4厘差の2位とあって、三冠王まであと一歩だった。
36本という一見平凡な本塁打数も・・・
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