
阪神・バッキー[右端]は巨人・王貞治の打席で2球続けて際どいコースに投げ、温厚な王が激昂。巨人ベンチから飛び出した荒川博コーチ[右から2人目]の頭を殴打した
テスト生から沢村賞投手に
1962年7月。ルイジアナ州出身で、もうすぐ25歳になる白人の青年が単身、大阪の地に降り立った。気楽な旅行ではない。生活のため、野球で稼ぐための来日だった。
彼の名は
ジーン・バッキー。投手である。この年のシーズン当初は、3Aのハワイ・アイランダーズで投げていた。しかし早々に解雇されると、日系人がオーナーを務めるハワイ朝日でプレーを続けた。その縁で、阪神の入団テストを受ける運びとなったのである。
テストが始まった。コントロールが定まらず、コーチの評価は低かった。それでも、捕手が捕れないほど不規則に揺れて落ちる
ナックルボールと、年齢の若さに監督の藤本定義は可能性を見いだし、合格を決めた。喜んだバッキーは、4月に結婚したばかりの新妻に「日本で暮らせる」と連絡した。
途中入団ということもあり、年俸は36万円(当時の大卒銀行員の平均初任給は約2万円)。球団が用意したアパートは狭く、トイレは和式だった。専属通訳など存在しない。そんな待遇であっても、もう後がなかったバッキーは、ただ前だけを向いていた。
初年度は0勝に終わったバッキーだったが、翌63年は8勝を挙げる。藤本の指導と走り込みによる下半身強化で課題の制球力が改善された。スライダーを習得したことで投球の幅も広がった。藤本が注目したナックルボールも威力を発揮。191cmという高身長から右腕を蛇のようにしならせて投じる魔球は、対戦相手を苦しめた。
64年、バッキーの才能は開花する。エースの
村山実と2本柱を形成し・・・
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