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よみがえる1990年代のプロ野球

【90's ジャイアンツの記憶】FA補強の功と罪 加速した大型移籍は「補強」と呼べるのか?

 

1993年オフに日本球界に導入されたFA制度だが、現在に至るまで、最も恩恵を受けているのが巨人にほかならない。90年代にIN&OUTを合わせて6件、以降、2021年までIN28件はもちろん、OUT8件を合わせたトータル36件もNPB最多。その歴史を紐(ひも)解くと、長嶋茂雄監督の執念とも言えるチームづくりへのこだわりが見えてくる。
構成=坂本匠 写真=BBM

巨人のFA補強第1号は落合博満。93年オフの会見では長嶋茂雄監督に帽子をかぶせてもらい、この満面の笑顔


巨人“補強”の歴史


 オフを迎えるたび、巨人がストーブリーグの主役となるのだが、どちらかと言えばダークなヒーローのイメージが強い。特にFA制度が導入された1993年(オフ)以降、それは顕著。他球団ファンにとってみれば、手塩にかけて育てた主力選手が、花を咲かせたところで引き抜かれるのだから当然と言える。近年は巨人ファンにあっても他所からの獲得に否定的で、育成を重視するよう求める声も多い。93年以降のFAをメーンとした巨人の“補強”を振り返る前に、それ以前のチーム強化についても知っておく必要があるだろう。まず、ざっと振り返ってみる。

 36年のプロ野球スタートから助っ人外国人の歴史も始まっているが、巨人は日本人選手中心のチームづくりを始めた。戦後は選手不足もあって日系人選手に目を向け、51年にはウォーリーこと与那嶺要が入団。彼の活躍で日本球界は空前のハワイ日系人ブームとなり、巨人にも「100万ドルの笑顔」と呼ばれた宮本敏雄らが続々入団した。60年代以降、球界の流れとしてはハワイ日系人中心からアメリカ球界からの助っ人へとシフトしたが、巨人は正力松太郎オーナーの「アメリカ野球に追いつき追い越せ」の指針もあり、75年に封印が説かれるまで長く“純国産主義”で戦い続けることとなる。

 この当時、助っ人獲得には動かなかったものの、他球団からの大物選手獲得でその代わりとした。有名なのは川上哲治監督時代、つまりV9時代の五番探し。長嶋茂雄、王貞治の2枚看板だけでも十分だが、63年の大毎・柳田利夫に始まり、65年は東映・吉田勝豊、近鉄・関根潤三、国鉄・町田行彦、66年には西鉄・田中久寿男高倉照幸、67年に広島森永勝也、69年には大洋から桑田武と、続々候補を獲得している。ただし、それなりの結果を残したのは高倉のみ。とはいえ、川上監督には血の入れ替えを行うことで既存の選手たちに刺激を与え、組織を活性化させる狙いもあったというから、一応の効果はあった。

 65年、B級選手の権利で移籍を希望した国鉄のエース・金田正一の獲得も成功例。国鉄時代のような活躍はできなかったが、その野球への取り組みがナインに大きな刺激を与え、V9の1つのポイントになったことを川上監督も高く評価している。その後、70年代〜90年代初頭にかけてのトレードは、例えば89年に中日中尾孝義を獲得し、衰えの見える山倉和博のあとの捕手に据えたように、劣っている部分の補強で、まずまず常識的ではあった。長嶋監督1次体制下の78年秋、阪神江川卓小林繁の超変則的なトレードもあるが、これは例外中の例外といえる。

 様相をすっかり変えてしまったのが93年オフからスタートしたFA制度だろう。当時グラウンド外では巨人の発言力が強く、FA制度導入は選手の要求と、巨人の思惑がマッチした産物とも言われた。巨人ブランドの影響力は絶大で、選手の中には「現役の最後は巨人で」と考える選手が多かったことに加え、高騰するトップ選手の年俸を払える財力を持っていたのが、当時は巨人しかなかったことも、FA戦線で有利な立場をとることにつながった。

FAで大型移籍が加速


 FA制度は長嶋監督の欲しがり病ともピッタリとマッチする。その補強には明らかな傾向があり、メーンは「四番」と「左腕」。巨人のFA加入第1号は、93年オフ入団の落合博満で、このときは高卒2年目を迎えようとしている松井秀喜が成長過程にあり、その見本ともなると目されていた。非常に価値のある補強で、実際、94年は「国民的行事」の中日との10.8決戦を制しており、この成功体験が、長嶋監督の壮絶なる補強に拍車をかけた。

投手のFA加入第1号は川口和久。元広島のエースはリリーフに転じたが、96年には胴上げ投手に


 例えば打者なら95年にヤクルトから広沢克己、さらに92年の首位打者&本塁打王ながらヤクルトを自由契約となっていたジャック・ハウエル、さらにツインズから8億円の費用をかけて大物メジャー・リーガーのシェーン・マックまで獲得する力の入れよう。問題は守備で、落合が一塁を守るために広沢が外野に回り、外野のマックも肩の衰えは隠せず。しかも、肝心の打撃面がいまひとつでは目も当てられない。投手陣ではFAで広島から川口和久、近鉄からトレードで阿波野秀幸の左腕を獲得。総額33億円補強も3位に終わり、失敗例として語り継がれることに。

97年には落合がチームを去り、清原和博[右]が加入。セ・リーグを代表する大砲へと成長していた松井秀喜とのコンビは「MK砲」と言われた


 とはいえ、以後も獲得意欲は衰えることを知らない。96年優勝の後、97年には西武から清原和博をFAで、近鉄からはトレードで石井浩郎と、各チームの四番打者がズラリ。落合は清原の入団を前に自ら身を引く形で自由契約となり、日本ハムへ移籍となったが、それでもこの年の一塁には清原、広沢、石井が並び、これはもう、「補強」とは言えない。ただし、良い選手をかき集めるだけかき集めて、必ずしも優勝につながらないのが面白いところだ。

清原入団と同じ97年、石井浩郎がトレードで加入。ほかにチームには95年にFA加入の広沢克己もおり、元四番&右の大砲があふれた


 このあと、補強はややペースダウンするのだが、97年=4位、98年=3位、99年=2位と、3年連続V逸で我慢も限界。99年オフにダイエーから左腕エースの工藤公康、広島から四番の江藤智をFAで獲得すると、ほかにも阪神を自由契約となったダレル・メイロッテから左腕リリーバーの河本育之らを迎え入れる。一気に30億円とも言われる大補強で2000年のミレニアムV、ON対決となったダイエーとの日本シリーズ制覇につなげるのだから、その執念たるや、恐るべし。

 ちなみに、江藤獲得は戦力面以外にも、もたらしたものが大きい。広島時代には背番号「33」であったため、当時巨人で「33」を背負っていた長嶋監督が決断。「33番を江藤君に譲り、僕は3番を着けます」とすべての野球ファンがもう2度と見ることはないとあきらめていた、ミスター・プロ野球の背番号3の復活が成った。

“長嶋補強”の集大成は99年オフ。FAで工藤公康[写真]、江藤智を獲得し、翌2000年のミレニアムVへとつなげた


 ただ、00年の優勝は、補強に頼り切ったものではなかった。多くの四番打者に囲まれて松井が日本球界を代表する四番打者に成長。この年は42本塁打、108打点で2冠に輝く働きを見せる。ほかにも98年にドラフト1位で入団した高橋由伸、99年2位の二岡智宏、96年2位の仁志敏久、同3位の清水隆行に、投手では99年1位の上原浩治、00年1位の高橋尚成ら生え抜きも活躍。工藤、江藤、清原らFA加入組に移籍加入組は、そんな生え抜き戦力をうまくサポートする形となり、ぶっちぎりのリーグ優勝&日本一は、戦力強化にまい進した長嶋監督の集大成とも言える1年だった。

 以降、巨人はドラフト、育成、FA(と新外国人)を柱としてチームを強化。特にFAは93年の制度スタート直後と変わらず重要な手段となっており、90年代に5件だったFAでの選手獲得は、2021年までに28件は12球団最多だ。批判を受けながらも93年以降、巨人はリーグ優勝12度、日本一5度。常勝を義務付けられたチームにとって、“補強”は切っても切り離せない魅惑の果実なのである。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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