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よみがえる1990年代のプロ野球

<90's HERO CLOSE-UP>オリックス・イチロー 孤高の天才打者として

 

90年代のパ・リーグを語る上で欠かせない存在だ。プロ3年目の94年から7年連続の首位打者に輝いたが、それ以上に1人のプロ野球選手として多くのファンを魅了した。誰もがイチローにあこがれ、そしてリスペクトしていた。
文=高原寿夫(日刊スポーツ)

イチロー[オリックス]


努力の天才打者


 90年代、彗星(すいせい)のように世の中に登場したイチロー。球史に残る名場面が数多くあるのは野球ファンなら誰でも知っていることだ。それとは別に、今でも脳裏から離れない姿がある。

 グリーンスタジアム神戸(GS神戸)のベンチ裏。コンクリートの壁に囲まれた薄暗い場所に試合後、イチローはいつもしゃがみ込んでいた。

 そこでグラブやスパイクにオイルを付け、黙々と汚れを落とし、磨き続ける。それを見守るわれわれ、新聞記者たちも同じようにしゃがみ込んで質問し、返事が返ってくるのをじっと待つ。実に不思議な取材スタイルが展開された。

「イチローは孤高の天才打者だったのか」──そこにはさまざまな考え、見方はあるだろう。当時、連日取材する“幸運”に恵まれた立場から言わせてもらえば「孤高」だったのは間違いない。

 あらためて「孤高」とはどういう意味か。「広辞苑」によれば「ひとりかけ離れて高い境地にいること。ひとり超然としていること」。まさにイチローのことを言っているようだ。

 試合後に欠かさず用具の手入れを行っていたのは、少年時代からそうやってきたからだ。言ってしまえばそれまでだが、そんなことをメディアの人間が見ている目の前で平然と続ける選手をほかに知らない。

 もちろん当時のGS神戸がそれを目にすることができる構造になっていたからだろうが、それにしてもロッカーに引き揚げてからでもできるそんな行為をイチローは黙々と続けた。

 そこには「いいカッコをしている」などと、ほかの選手らに思われるなどと気にする様子はまったくなく、自身の決まり事として続けた。

 バットをバックネットに立てかける姿も不思議に映ったものだ。湿らないように“天日干し”しているという。当時、堂々とそんなことをする選手は誰もいなかった。これも同じだ。誰にどう見られても関係ない。自分が野球に必要、最善と思うことをするだけ。

晴れた日にバックネットで天日干し。道具に対する意識の高さはイチローの原点でもある


 なんとも不思議な選手だと思ったが、それが史上初の「200安打超え」(1994年=210安打)などの常識を超える結果と結びつき、徐々に「孤高」ムードを醸し出していったのは事実だ。

 孤高なのは間違いない。しかし天才打者だったかと言われれば、それは分からない。素質だけで言えば、イチロー以上の選手もいた可能性はある。イチローが抜きん出ていたのは「孤高」に野球に取り組む姿勢、努力を続けるそのスタイルだったと思う。

 個人的な話で恐縮だが、大リーグに挑戦する2000年オフに「イチロー努力の天才バッター」という本を書いた。まさにその題名どおりでイチローは「努力の天才」だったのだ。

パ・リーグ打者の顔は、落合博満から清原和博、そしてイチローへ。写真は95年オールスター第1戦[横浜]の表彰式


野球への情熱と向上心


 あの姿を見たのはいつだったろうか。福岡でのダイエー戦。記憶が正しければ火曜日からの3連戦。月曜が移動日になっていた日のこと。首都圏、関西圏のサラリーマンに人気のある出張先はどこか。そんな調査で常に名前が挙がる街は福岡、札幌だ。観光地でもあり、飲食の面でも特色がある。仕事で行っても、どこか楽しい気分になれる。

 野球選手にとっても、それは同じだった。当時、日本ハムはまだ東京ドームが本拠地だった。近鉄は大阪なので神戸が本拠地のオリックスにとって遠征先は東京、千葉、そして埼玉。そんな関東遠征に比べ、福岡は楽しいビジターだった。

 おまけに移動日付きだ。普通はさっさと福岡入りし、選手仲間や友人と中洲や天神辺りに繰り出すのが一般的だった。イチローにしても例外ではなかった。

 しかしこちらは経費節減もあり、デスクから「ナイターだから当日入りしろ」と言われ、月曜は神戸でブラブラ。「取材といってもみんな福岡に行ってるのに……」。そんな思いで室内練習場をのぞく。すると、そこで思いがけない場面に遭遇する。

 イチローがマシン相手に打ち込んでいた。選手、関係者が乗車する、いわゆる「チーム便」の新幹線はとっくに出発している。にもかかわらずイチローは神戸で打ち込んでいるのだ。孤独な練習は1時間以上も続いただろうか。

 同業他紙の記者とともに見守るこちらにツカツカとやってきて言った。「これはプライベートですからね。書かないでほしい」当時、イチローは不調を感じていた。隣接する合宿所に住み、常にマシン打撃をする習慣からすれば普通のことだったのかもしれない。しかし移動日をつぶし、たった1人で一心不乱に打ち込む姿は無言の迫力があった。

攻守走とすべての面で一流だったイチロー。高い技術を追求しながら、野球を楽しむ姿勢も忘れなかった


「がんばろう神戸」でパ・リーグを制した95年、翌96年にはリーグ連覇を果たし、長嶋巨人も倒して日本一に輝いた。それでもイチローの向上心、野球への情熱はまったく揺るがなかった。

 その秋、日米野球が行われた。そこに参加したイチロー。全日程が終わったとき、少し目に涙を浮かべながら言ったのはこんな内容だったと記憶する。

「何と言えばいいのか。“こんなすてきなヤツら”がいるんですね。この瞬間がずっと続けばいいと思ってプレーしていました」

 小学生のころからプロ野球選手になると誓った。中学では成績も良く、野球の名門校に進学すると決めたとき、中学側からは「進学校に進めば東大も狙える可能性がある」と反対されたエピソードもある。

 そこで甲子園にも出場。そして念願をかなえ、プロ野球選手になった。そこでほんのわずかの間に球史を塗り替えるまでの存在になった。そうなれば……。次に挑戦すべき場所は、行くべき道は大リーグしかない。メジャーリーガー・イチローの誕生は夢でも挑戦でもなく、もちろん金銭面の好条件などでもなく、自らの運命に従ったものだった。

 50歳になった今もなお、イチローはトレーニングを続け、体形を維持し、野球を続ける。本当にいつの日か、現役復帰するのではないか。今でもそんな思いが捨てきれない。


PROFILE
すずき・いちろう●1973年10月22日生まれ。愛知県出身。右投左打。身長180cm、体重75kg。愛工大名電高からドラフト4位で92年にオリックス入団。登録名を「鈴木一朗」から「イチロー」に変更した94年に当時最多の210安打で首位打者に輝き、以降7年連続首位打者。95年には打点王、盗塁王も獲得、翌96年はリーグ連覇、日本一の立役者となり、3年連続MVPに。2001年にポスティングでマリナーズへ移籍。NPB通算成績951試合、1278安打、118本塁打、529打点、199盗塁、打率.353。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 パ・リーグ編 2021年12月23日発売より

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