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よみがえる1990年代のプロ野球

<90年代のプロ野球を語る>星野伸之(元阪急・オリックス-阪神) 90年代通算118勝はパ・リーグ1位「118勝よりも246試合に先発したことのほうがうれしい」

 

得意のスローカーブにフォークボールを駆使し、最速130キロ台のストレートをそれ以上に速く見せた。プロ野球選手とは思えないほど細身の体だったが、しなやかな腕の振りから繰り出すボールはすべて一級品。90年代のオリックス、そしてパ・リーグの顔だった。
取材・構成=牧野正 写真=BBM

右足を高く上げる独特のモーション。テークバックが小さいのも特徴だった


西宮からGS神戸へ


 阪急がオリックスに身売りしたのは1988年のオフ。オリックス1年目となった89年は、開幕8連勝を飾って6月まで首位を独走したが、最後は近鉄、西武の三つ巴(どもえ)となり2位に終わった。来年こそはと、チームは84年を最後に遠ざかっている優勝を目指し、90年代に突入。星野も主力投手として、オリックスになくてはならない存在となっていた。

 90年は前年に優勝を逃した悔しさからスタートしました。当時はブルーサンダー打線。松永(松永浩美)さん、ブーマー、門田(門田博光)さん、石嶺(石嶺和彦)さんに藤井(藤井康雄)さん……本当にすごい打線でした。打高投低のチームだったんですが、91年から本拠地が狭い西宮球場から広いグリーンスタジアム神戸(GS神戸)に変わり、求められる野球も変わっていったように思います。外野の守備力がより必要になり、ホームラン打者は苦労していましたから。門田さんはホークスに戻り、ブーマーもホークスへ、そして松永さんもトレードで阪神へと、少しずつ顔ぶれも変わり、田口(田口壮)やイチローが出てくるようになりました。投手の立場からすれば、広いGS神戸になって本塁打の怖さはなくなりましたが、その分、ポテンヒットが多くなった。広いほうが気分的には安心なんですが、投手が有利になったとも言えなかったですね。

 91年から土井(土井正三)監督になりました。僕は1年目(84年)からずっと上田(上田利治)監督でしたから、どんな野球をするのだろうと、僕だけでなくみんな身構えていましたね。ただ上田さんと大きく変わらなかった。先発なら完投を目指しなさいと。次の仰木(仰木彬)さんは継投タイプでしたから。

上田監督や土井監督に比べると、仰木監督は継投策が多かった。「球が高くなり始めたら」が交代の目安だったという


 松永さんのトレードは92年オフでしたが、個人的には痛かった。僕はカーブ主体の投球なので、右打者はサード方向にボールがよく飛ぶんです。松永さんのファインプレーにはよく助けられていましたからね。でもチームとしては大成功のトレード。阪神から来た野田(野田浩司)は活躍しましたし、あれも広いGS神戸で投手力を重視してのトレードだったのだと思います。

 それでも90年代の前半は西武が強かった。僕が入団したときから西武は強かったので、その強さが続いていたという感じで、最後は西武というのが定着していたように思います。投打のバランスがよく、レギュラーが固定。レフトだけが空いていたと思いますが、僕が投げるときはほぼ笘篠(笘篠誠治)さんと決まっていました。ただ、西武だけでなく、近鉄も強かったですよ。90年代の近鉄と言えば、野茂(野茂英雄)ですよね。ルーキー時代、バックネット裏にあるブースから見たことがありましたが、これは打者は打ちづらいだろうなと思いました。独特のフォームから、たまにカーブも投げていましたが、ほとんどが真っすぐとフォーク。それが力強く、その2種類だけで打ち取っていました。特にフォークの落差は半端なかった。すごい投手でした。

 僕は93年から選手会長になったんです。本当は順番でいけば、3つ上の藤井さんだったんですが、藤井さんが少し成績を落としていたこともあり、佐藤(佐藤義則)さんから「お前が先にやれ」と言われて。95年まで務めましたが、最後の年に阪神淡路大震災があり、チームも優勝という大きな出来事がありました。あのシーズンは今思い出しても、不思議というか、目に見えない、いろんな力が重なったなと思います。

イチローと2連覇


 95年は1月に阪神淡路大震災があり、その後の日々は、野球に集中できる状況ではなかった。仰木オリックスの2年目、星野にとってプロ12年目のシーズンはまさかのスタートとなったが、チームはファンの声援にも支えられ、「がんばろうKOBE」のスローガンとともに一つにまとまっていた。星野の言葉を借りれば「同じ被災者同士だからこそ分かり合えた」。あのときほどファンと一体感を感じたシーズンはなかったという。

 とても野球をできる状況ではないし、野球をやっている場合なのかと思いました。春季キャンプは自主トレの延長のようなもので、いつものキャンプではなかったですね。手探りでやっていたように思います。それでもオープン戦で一塁側にファンが応援に来てくれるわけです。それどころではないのにと思っていましたので驚きました。でもこうして球場に足を運んでくれるファンの姿を見たら、自分たちも頑張らないといけないと感じましたし、野球を見ている間だけでも嫌なことを忘れて楽しんでもらいたいと思いましたね。お互い被災者として苦労し、大変な思いを経験した。だから一緒に頑張っていきましょうという気持ち。選手とファン、お互いが支え合っていたように思います。その年に優勝できた一番の要因です。不思議な力が湧いてきたし、あれほどファンの力を感じたシーズンはなかったですから。

 最後はGS神戸でロッテと3連戦(9月15〜17日)があって、1試合でも勝てば地元で優勝となったんですけど、そんなにうまくはいかず、ロッテの気迫もあって3連敗でした。3戦目は勝てるチャンスだったんですが(7回まで3対1とリード)、抑えの平井(平井正史)が打ち込まれて逆転負け。これは平井も言っていましたが、逆転されて降板するときに野次の一つも覚悟していたそうですが、平井に温かい拍手が送られたんです。あのシーンは僕も見ていて胸が打たれました。ファンも平井のフル回転の活躍を知っていたのだと思います。実際、投手では平井、打者ではイチローの若い力があってこその優勝でしたから。

 イチローで言えば、仰木さんとの出会いが大きかったでしょうね。それまでウワサでは僕も聞いていたんです。下(二軍)にすごい打者がいる、とにかく内野安打が多いんだと。でもそんなに内野安打って出るものかなと思っていたんですが、実際に見て納得でした(笑)。足は速いし、守備もうまい。イチローはボール球でも手を出すんですが、それが全部ヒットになるんです。細身なのに飛距離もある。練習ではよくスタンドに放り込んでいました。何しろ攻守走とすべてにおいて素晴らしい選手でした。

94年から3年連続MVPのイチローと[左]。星野もイチローに対しては尊敬の念を抱いていた


 95、96年と連覇しましたが、個人的に手応えを感じたのは96年。選手会長を藤井さんに譲り、自分のことに集中できた。95年は震災があって落ち着かなかったですしね。11勝から13勝と成績も上がり、日本一にもなりましたから。僕にとっては最初で最後の日本一。チーム力も充実していました。得点力はブルーサンダー打線のころに比べればそうでもなかったですが、投手が頑張っていれば必ず得点につなげてくれた。投打のバランスがすごく良かったし、だから連覇できたのだと思います。

95年、神戸市内で優勝パレード。仰木監督、イチローとともに


 この年は序盤から日本ハムが首位だったんです。でもだんだんと落ちていった。僕らは普通に戦っているだけなのに相手が勝手に意識して最後は勝ってしまう。そのときに思ったのは、僕らも西武相手にずっとこんな感じだったのかなと。連覇したからこそ気づいたことですね。

 90年代最後のオフ、僕はFA宣言でオリックスを離れました。その理由は明かせませんが(笑)、やっぱりずっとお世話になった球団ですから勇気が要りました。手を挙げてくれる球団があるかも分からないですし。結局、阪神に行くことになるんですが、野村(野村克也)監督から「お前もそのうち引退するだろうから、今後のためにもセの野球も経験しておいたほうがいい」と言われたことは、よく覚えていますね。

96年のオールスターゲームに監督推薦で選ばれたオリックスの4人。左から田口、星野、野村貴仁鈴木平


誇れる記録と納得の数字


 プロ4年目の87年から続いていた2ケタ勝利は98年でストップしたものの、99年は11勝と意地を見せた。90年代の10年間で通算118勝はパ・リーグ1位。246試合先発、82完投、17完封、12無四球試合もトップだ。162被本塁打も1位だが、それだけ投げていたという証しでもある。カーブを軸に緩急を駆使した芸術的なピッチング。オリックスの背番号28は、90年代のパ・リーグを代表するエースだった。

 そんな成績が残っているなんて初めて聞きましたよ。僕のためにいいとこどりじゃないですか(笑)。勝利数は僕ではなく、工藤さん(工藤公康、西武ほか)とか渡辺久信(西武ほか)かと思っていました。でもそれよりも誇りに思うのは、246試合で先発したほうですね。それだけ先発ローテーションを守っていたということですから。結果が出なかったら外されるわけで、チームにも貢献できたのかなと。1年に平均するとだいたい25試合。中5〜6日で投げていたので、これは本当にうれしい数字です。確かに言われてみれば、大きな故障もなかったと思います。96年に一度、3週間ほどの離脱があったくらいかな。一番納得がいくのは被本塁打。これはそうだろうなと。僕の場合、後悔のないホームランはないんですよ。つまり完璧なホームランばかり打たれていたということ。フェンスぎりぎりに飛び込んだ一発はほとんどなかった。かえってあきらめがつくというか、切り替えやすいというか(笑)。

 結構、西武や近鉄を相手に投げていた記憶があります。西武の試合はいつも勝っても負けても苦しかった。でもそれが西武の強さ。簡単には勝たせてくれない。近鉄もすごい打線でみんなスイングとか鋭かったですよ。隙を見せると一気にやられる怖さはありましたけど、その一方で大雑把な部分もあって、抑えられるときは完封とかできました。そこが西武との差だったのかなと思います。

 思い出深い助っ人を挙げるなら、優勝したときのトロイ・ニールフレーザーかな。ニールは僕の投げるときに本当によく打ってくれました。サヨナラ3ランもありましたね(96年6月25日の日本ハム戦/盛岡)。いつもありがとう、ありがとうと伝えてました。フレーザーは同じ投手だったし、よく車に乗せてあげました。祖母が日本人か日系人かで、日本の文化をよく理解していた助っ人。一度、わが家に来たことがあるんです。球場では僕の英語を「ベリーグッド」と褒めてくれていたのに、家に来たら「本当はぜんぜんへたくそだ」と言われました(笑)。

 ライバルというか、負けたくないと思っていたのは渡辺久信です。昭和40年会の同級生なんですよ。1年目から活躍し、いつも西武で優勝していましたから、投げ合うときは絶対に負けられないと気合いが入りました。90年代のオリックスはすべてAクラスだったと思います。Bクラスになった記憶がないですから。優勝も2回できましたし、その中で投げられたのはいい思い出です。

星野伸之[元阪急・オリックス-阪神]


PROFILE
ほしの・のぶゆき●1966年1月31日生まれ。北海道出身。左投左打。旭川工高から84年ドラフト5位で阪急に入団。85年に一軍デビューし、86年から先発ローテーションの一角に。87年に6完封するなど左腕エースに成長し、98年まで11年連続2ケタ勝利を挙げた。2000年にFAで阪神に移籍し、02年限りで引退。06年から阪神二軍投手コーチ、10年からはオリックスで一軍投手コーチを務めている。現役通算427試合登板、176勝140敗2セーブ、2041奪三振、防御率3.64。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 パ・リーグ編 2021年12月23日発売より

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