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よみがえる1990年代のプロ野球

【90's ホークスの記憶】勝利への執念、結実の1999年 王貞治監督が選手に伝えたかったこと──

 

低迷期打破は1994年オフ、根本陸夫監督から王貞治監督に託された。「勝てるチームをつくる」。その一心で選手と向き合い続けた日々。指揮官による意識改革は徐々に浸透し、チームは勝つことの喜びを知る。そして99年、“常勝軍団”への一歩を踏み出した。
構成=菅原梨恵 写真=BBM

弱さを露呈していたチームを一から築き直すため、就任当初から選手に寄り添い、何度も戦うことの意味を問いかけてきた。その結果が5年目にようやく……


導かれるように福岡へ


 直近10年で4度のリーグ優勝、日本一は6度。2017から20年まで4年連続日本一を果たすなど、いまや12球団を代表する“強いチーム”となったホークス。その流れは90年代の終わりから続いており、特に今も息づく“勝利への執念”は当時の監督だった王貞治によって築き上げられてきたものだと言えるだろう。

 王がホークスの監督に就任したのは1994年のオフのことだ。前監督で当時フロントのトップも兼任していた根本陸夫に声を掛けられたことがきっかけだった。ただ、この根本からの監督要請は93年からあったという。

「とにかくダイエーを優勝するチームにすると同時に、パ・リーグ全体を盛り上げなければいけない。俺は今、監督をしているが、そのためにはどうしても裏方に回ってやらなければいけない仕事があるんだ」(根本)

 根本はホークスを「野球をしている集団から、戦う集団へ変える」という使命の下、福岡の地へやってきた。自ら指揮を執ってみたものの、結果は45勝80敗、勝率.360でぶっちぎりの最下位だった。

 同年オフ、顔を合わせた際に根本から「来年から監督をやってくれよ」と声を掛けられた王だが、あまりに唐突な話ゆえ、1度は断りを入れた。しかし、翌年も顔を合わせるたびに同じ話をされた。

 王が巨人の監督を退任してから6年。王いわく「浪人生活」を送る中で「再びユニフォームを着る気はないと思っていた」。だが、根本から声が掛かった同じころ、心境には変化が表れていた。

「やはり野球選手というものは、戦いの輪の中にいないと……。日々、何か湧いてくるものがある世界を離れると、気が抜けたみたいになってしまう」

「再び野球の中へ――。監督として一喜一憂する。ワクワク感とドキドキ感が違う。これはユニフォームを着ていなかったらあり得ないこと」

 球団の本気度も決断を後押しした。94年1月には当時の瀬戸山隆三球団代表を交えて食事会。さまざまな話が飛び交う中で、日本シリーズでの「ON対決」という夢物語も話題に上がったという。その後も瀬戸山球団代表とは定期的に顔を合わせた。

 気持ちの変化に、ホークス側からの打診。重なったタイミングは、必然だったのかもしれない。最初は「パ・リーグにいる自分を想像できなかった」という王が、気が付けば「またユニフォームを着るなら、福岡、九州みたいな遠く離れた場所ならいいのではないかな」と漠然と考え始めていた。そして、94年の中ごろには受諾の返事をしていた。

1994年10月12日 監督就任会見[左から]根本前監督、王監督、中内功オーナー、中内正オーナー代行


嫌われたって構わない


 94年10月12日、ダイエーの球団旗をバックにして、ひな壇に上がった“王監督”の口調は、いつになく晴れ晴れとしたものだった。「(球団側に)誠意を示してもらった。チームを強くしたい、という情熱を感じた」。

『チームを強く――』

 これが、王に課せられた至上命題だ。

「中内(中内功、オーナー)さんには『とにかくチームを強くしてくれ』と言われました。そこが一番難しいんですけどね(笑)。それにはやはり“意識改革”しかない。野球選手としての能力は、皆、変わらないから」

 現役、指導者としての30年を巨人という常勝チームで過ごし、自分の人生の中に常に“優勝”という2文字が共存していた王にとって、長年Bクラスに沈むホークスの選手たちの意識は、やはり“別物”だった。当時の選手たちにチームを振り返ってもらえば、出てくる言葉は「弱いチームの典型」「負けに慣れている」。優勝を目標設定して身近に置いている人はほとんどいない。でもそれは、当然と言えば当然のこと。「これは選手たちの責任ではなく、長年の環境がそうさせてしまった」(王)。

 だから、王はまず「『何のために野球をやるのか』『一つひとつのプレーが何のためなのか』、選手の耳にタコができるくらい、言い続けないとならない」。プロ野球選手としての“原点”を選手たちに問い続けた。それは、すなわち「勝利を目指し、ファンに喜びを与えること」。そのことを自覚させなければならなかった。

 ただそれは、決して簡単なことではない。それは王が、数々の功績を残してきた“世界の王貞治”として選手たちに認識されていたことも影響していたのだろう。監督と選手たちとの間にはどこか距離のようなものもあって、見ている方向はみんなバラバラ。チームにまとまりはなかった。

「選手たちからしたら、言っていることは分かっても、僕の立場そのものに反発する気持ちもあったでしょう。しかし、だからといって言い続けないと、変革はできません」

 嫌われたって構わない。いつか選手が分かってくるときが来る――。その“いつか”を信じて、自らは絶対にブレることなく、選手と向き合い続けた。

勝つことでしか味わえないもの


 根気勝負の中、なかなか上がらないチーム成績も相まって96年5月9日には“事件”も起きる。通称「生卵事件」。日生球場で行われた近鉄戦は、初回に秋山幸二の本塁打で先制するも逆転負け(2対3)。開幕から迷走して最下位に沈むチームを象徴するような試合に、ファンの怒りが爆発した。球場から出るナインの乗った大型バスを約300人のファンが取り囲み、心ないヤジが次々と飛んだ。それとともに一部のファンからは生卵が投げつけられ、割れた卵が窓にべったりとくっついた。緊迫の約15分間だった。ただそれも、王からすれば「卵をぶつけられるような野球をやっているのは俺たちなんだ」。そして、選手たちにこう言った。「勝てば文句は言われない」。

1996年5月9日 生卵事件


 何があっても一貫して変わらない王の言葉、意識づけに、徐々に選手たちも変化が見え始める。その中心には工藤公康や秋山といった西武時代に勝つこと、優勝することの喜びを知っている選手たちがいて、王監督の下で主力として育ってきた城島健司小久保裕紀らがいた。98年、チームはBクラスを脱却、3位の成績を収めた。

「勝ったときの気分が最高であろうことは、誰もが分かっていることです。それだけではない。勝利を得るまでの、しびれるようなプレッシャーや緊張感も、Bクラスの常連では決して味わえないもの。試合でそういう感覚を味わえる機会を増やしていくことによって、徐々に選手たちに『真のプロ意識』が芽生えていきました」

 王が来て、王に触れ、選手たちは確実に変わっていた。そして99年、待ち望んでいた歓喜の瞬間がついに――。この年も最後まで気の抜けない接戦が続いていた。それでも、前年の経験を経た選手たちは、しびれるようなプレッシャーや緊張感を力に変えてみせた。王監督就任から5年目にして、球団としては26年ぶり、福岡移転後初のリーグ優勝。しかも、勢いはここでとどまらず、チームは中日との日本シリーズも制して日本一にも輝いた。

1999年 優勝に向かってチームは一つに――


「まさか、日本一にまでなるとは思わなかった、というのが正直なところです。ただ、力をつけ、勢いに乗れば日本一にだってなれるんだと、選手たちがそこで体感できた。一度覚えてしまえば、それを追い求めていくことが当たり前になり、練習なども率先して取り組むようになります」

 王が言うように、勝利を身をもって味わったチームは翌年も再び頂点に立つ。そして月日を重ね、毎年のように優勝争いを繰り広げるチームに。“王イズム”はこれからもホークスを支え、継承されていく。(文中敬称略)

球団としては26年ぶり、福岡移転後初のリーグ優勝の瞬間は地元ファンの目の前で。信念を貫いた指揮官は4度、宙を舞った。



週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 パ・リーグ編 2021年12月23日発売より

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