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【90's タイガースの記憶】1992年、暗黒時代の大快進撃 「カメシンフィーバー」偶然の中の必然

 

1990年代の阪神。誰もが暗黒時代と呼ぶ。10年間で6度の最下位に、3度のBクラス。だが1度だけ、まぶしく輝き「優勝」の2文字をはっきりと言えたシーズンがあった。それが1992年。偶然が重なり、あらゆることがいい方向に向き優勝争いへ。今振り返ると、この年は、そうなる運命だったと言える戦いぶりだった。
構成=椎屋博幸 写真=BBM

亀山、新庄ともに92年ブレークを果たし、猛虎快進撃の中心として大フィーバーを起こした


いくつかの偶然が重なった


 偶然が重なれば必然になる。1992年には、その偶然がいくつも重なった。92年シーズンに向けて、甲子園は、この球場の名物でもあったラッキーゾーンを撤廃した。もともとは本塁打を打つ打者が少なかったチームで、撤廃することで二塁打や三塁打を多く出すためだったと言われる。

 実際に恩恵を受けたのは打撃のほうではなく、野手と投手陣だった。特に守備範囲が広がる外野は、守備面でそれが顕著だった。当時のライトのレギュラーは、1985年の日本一をけん引した真弓明信。ベテラン選手がラッキーゾーンのない外野を縦横無尽に守るのは難しい。

 ドラフト外で入団し、プロ5年目を迎えていた亀山努は「打つことは(真弓さんに)かないませんが、守備範囲と肩と走力であれば何とか真弓さんと勝負できました」と語っている。その亀山は、開幕ロースターに入り、開幕初戦、2戦目と途中出場。2戦目の延長10回にダメ押しのタイムリーを放った。本来なら登録される先発投手との絡みで抹消になる予定だったが、このヒットで食い止め、さらに開幕4試合目の4月8日の巨人戦(東京ドーム)で「二番・中堅」のスタメンを勝ち取った。

 対戦相手は巨人のエース・斎藤雅樹。阪神打線は前年まで斎藤の投球に翻弄されていた。そこでこの試合は左打者を並べる作戦に。それが見事にハマり、亀山は内野安打2本を放ち、どちらとも得点となり逆転勝利に貢献する。その活躍が認められ、また強肩と脚力をアピールしレギュラーとなっていく。

ダイナミックなヘッドスライディングが代名詞の亀山。泥臭くも必死にプレーする姿に虎ファンも熱狂した


 もう一つの偶然は、故障絡みによるもの。高卒3年目の若者は当時の40人枠から外れていた。枠から外れることは一軍でプレーできないことを意味する。しかし、4月後半に嶋田章弘がケガで登録抹消されると、新庄剛志が一軍に上がってきた。そして、新庄にとって2度目の偶然もケガだ。

 5月に入り、三塁を守っていたオマリーがケガで離脱。そこで新庄が三塁で抜てきされたのだ。外野手だった新庄は、この年、内野手登録となり二軍では遊撃の練習していた。その経緯もあり三塁に抜てきされる。それが5月26日の大洋戦(甲子園)。「七番・三塁」での試合だった。

 新庄は、第1打席でいきなり結果を出す。この年、初打席の初球を一閃(いっせん)した。打球はラッキーゾーンがあった位置をはるかに超え左翼席へ消えた。プロ3年目の初打席で初球でのプロ初本塁打。もちろん、その後も三塁手としてプレーし、12試合連続安打も記録。一躍スターダムにのし上がった。

細身の体に真っ赤なリストバンドをしてグラウンドを駆け回った高卒3年目の新庄。ここから新庄伝説が始まっていく


 6月にオマリーが復帰すると、新庄の打撃を維持するために、センターへ入ることになった。当時オマリーの加入もあるが、ラッキーゾーン撤廃により、外野に力を入れる方針で、前年まで三塁を守っていた強肩の八木裕がセンターを待っていたが、新庄が入ったことでレフトへ回った。レフトに入っていたパチョレックが一塁になったことで、ここに若く鉄壁の外野陣が形成されたのだ。

 途中出場、そしてライバル・巨人戦で結果を残した守備力の高い亀山に、2人の故障者の代役で出場し、いきなり本塁打を打って見せた新庄。その2人の偶然的な出現が、ここまでシンクロしてしまうと、92年はなるべくして出来上がったチーム編成だったと言えるだろう。

 その偶然からの勢いはフィーバーを巻き起こす。泥臭いプレーとメガネを掛けながらも豪快なヘッドスライディングを見せる亀山。細身の体と、真っ赤なリストバンドを着けて、グラウンドを縦横無尽に駆け回る新庄。2人の若者が大活躍し「カメシンフィーバー」が巻き起こる。

 投手陣も、若くて守備範囲が広く強肩の外野陣をバックに好投し続ける。「本来は野手のためのラッキーゾーン撤廃が、投手のためにもなりました。甲子園は浜風があるとはいえ、右打者がレフト方向に打ってもホームランになりにくい。だから思い切った攻めの投球ができたんです」とはこの年、チームの勝ち頭で14勝を挙げた仲田幸司。彼もまた守りの固さを武器に5月までに7勝を挙げた。

 6月に入り、投手陣は好調だった。6月9日の中日戦(甲子園)では葛西稔が完封勝利(6対0)を挙げて首位に躍り出た。さらに14日の広島戦(甲子園)では湯舟敏郎がノーヒットノーラン(6対0)を達成。記録に残る投球を見せた投手陣は、この年、防御率2.90という高い数字をたたき出した。

6月にノーヒットノーランを達成した湯舟。その後もエース格として首位争いをけん引したのだが……


お土産を持って帰れず


 強力な投手陣と鉄壁の外野陣を全面に出しながら首位争いに食らいつく。6月に一時首位に立つも、ヤクルト、広島、巨人の4チームで首位を争う四つ巴の状態。その中で死のロードと言われる8月前半からの戦いを勝ち越し、最大4.5ゲーム差でヤクルトを追い掛ける。その状況で阪神も8月27日から3連敗。9月2日から3連敗と苦しい状況の中、首位のヤクルトが8月後半から9月にかけて3勝10敗と急失速。するとゲーム差は1となり9月11日、甲子園での直接対決を迎える。

 同点で迎えた9回裏二死一塁から、八木がレフトスタンドへサヨナラホームラン! 八木は両手を突き上げてホームイン。ナインもホームベース上で歓喜を挙げた。勝てば、首位に躍り出る。ヤクルトの勢いがない状況で、選手、そして虎ファンは7年ぶりの優勝が頭によぎったはずだ。

 しかしその直後、ヤクルトが抗議を入れ、審判団が協議。その結果、スタンドインと思われた打球は、フェンスに当たり、跳ね返った打球がスタンドインしたエンタイトル二塁打と判定を下す。当然のように、勝利を確信し歓喜に沸いていた阪神陣営は騒然。中村勝広監督が37分もの猛抗議を行ったが、判定は覆られなかった。

 幻の2ランは、二死二、三塁となりスタート。しかし、サヨナラのチャンスをつかむことができず延長戦へ。両チームとも得点を挙げることができずゼロ行進のまま延長15回規定により引き分け。試合時間6時間26分。試合終了は午前0時26分だった。この引き分けで疲れが残ったのはヤクルトのほうで、このあと阪神が2連勝し首位を奪い返した。さらにそこから、広島、大洋に3連勝。11日の引き分けを挟み、7連勝を飾る。

 その勢いを象徴する試合が9月16日、甲子園での広島戦だった。0対0の熱戦は9回裏までもつれる。対戦相手のマウンドには守護神・大野豊。一死後に八木が四球を選び出塁。続く新庄が打席に。2ストライク1ボールと追い込まれながら、甘く入ってきたスライダーを見逃さず、強振すると打球は左翼席へ消えるサヨナラ2ランとなる。

 この試合のヒーローインタビューは、もちろん、このシーズンの虎打線をけん引してきた新庄。ボルテージは最高潮に「ファンの皆さんの期待に応えられてよかった」と興奮気味に話したあと、「優勝です!」とV宣言。「チームも僕自身も確かに勢いに乗っています。それは優勝できるってことじゃないかな、と。そう思わないとこれからはやっていけませんよ」と語った。

 その言葉どおり、続く19日の大洋戦(甲子園)も5対1で勝利。7連勝として、最後の長期ロードへ。中村監督は、インタビューで「お土産を持って帰ってきたい」というコメントを出した。当然、劇的な勝ち方で7連勝を飾っており、その勢いは止められない状況。誰もが「優勝」の二文字が頭によぎるのは必然だ。

「監督が自ら優勝宣言をしたので、一気に意識しました。もう優勝するんだ、と。その意識が守りに入らせたかな」と八木は当時を振り返る。実際にロードでの最初の巨人2連戦でともに完封負けを喫した。明らかに硬くなっていたのである。

 負の連鎖は続き、そこからさらに2連敗を喫し計4連敗。9月27日のヤクルト戦(神宮)は6対3で勝利。その後、10月2、3日の大洋戦(横浜)で2連勝を飾るも、またもや4連敗を喫した。うち10月6、7日はヤクルトとの直接対決だった。特に7日の試合では、先発の湯舟を抑えに抜てきしたのだが、リリーフ経験のない湯舟は四球を連発。抑えきれずサヨナラ負けを喫すという、負の連鎖が続き、長期ロードを3勝10敗で終えたのだった。

9月に7連勝して「お土産を持って帰る」と遠征での優勝宣言をしてしまった中村監督。それが選手たちの足を重くさせてしまったのか!?


 だが、まだ優勝の可能性は残されていた。10月10、11日、地元・甲子園でのヤクルトとの直接対決で連勝すれば、プレーオフの可能性が残っていた。「意地を見せるしかない(中村監督)」という思いで臨んだ1試合目。無残にもヤクルトの強打の前に屈し、2対5で敗戦。目の前で優勝をさらわれてしまった。

 シーズン131試合目で、優勝を逃した。「悔しくないと言えばウソになる。選手たちは死力を尽くしてくれた。中村自身の力不足」と中村監督は敗者の弁を語った。選手会長の和田豊が「大きな経験になった。悔しいけど、絶対にこの日を忘れない」と言えば「ムチャクチャ悔しいけど、自分の力になった。この経験を生かして、もっともっとチームに貢献したい」と新庄。もう一人の92年躍進の立役者・亀山も「来年は必ずこのお返しを」と硬く誓った。

 2年連続最下位だったチームが、最後まで優勝争いをしたのは、偶然が重なった必然。戦力がうまくまとまったから。この必然が、翌年の優勝への道しるべになるはずだった。しかし……現実はそう簡単なことではなかった。

10月10日、勝てばプレーオフの可能性を残して臨んだ甲子園でのヤクルト戦。最後は力負けで優勝を目の前で許すことになってしまった


週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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