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【90's マリーンズの記憶】1995年、たった1シーズンに終わった「ボビー旋風」 6月下旬から快進撃も次第に離れた広岡GMとの距離

 

1990年代のロッテにとって、勝率5割を超え、唯一輝いた年と言っていいのが、1995年だ。ボビー・バレンタイン監督のタクトが冴え、チームは快進撃。しかしその裏で、広岡達朗GMとのチーム内の主導権争いが勃発。好成績を残しながら、第1次バレンタイン政権はわずか1年で終わりを迎えることとなった。
構成=堤誠人(中日スポーツ) 写真=BBM

1995年、前年まで8年連続5位、6位だったチームを、一気に2位に引き上げたバレンタイン監督。しかし広岡GMとの確執で、わずか1年でチームを去ることになった


打線が機能せず、6月18日時点では借金11


 ロッテのリーグ成績は1994年まで8年連続で5位か最下位。これは当時、78年から86年まで9年連続で5位以下だった南海に次ぐワースト2位だった(その後に横浜・DeNAが2008年から8年連続で5位以下)。当時は森祇晶監督が率いていた西武の黄金時代。毎年のように投打のタイトルホルダーは出ていても、チームとして機能することがなかった。

 そこで、94年オフにはヤクルトや西武の監督として日本一を達成した広岡達朗氏を、日本球界初の本格的なゼネラルマネジャー(GM)として招へい。米大リーグのレンジャーズで監督経験があったボビー・バレンタイン氏を監督に迎え入れた。外国人監督は82年の南海のドン・ブレイザー監督以来、13年ぶりだ。

 大物外国人も補強した。バレンタイン監督がレンジャーズ監督時代の選手だったフリオ・フランコ内野手とピート・インカビリア外野手が加入。フランコは91年のア・リーグ首位打者で、通算183本塁打のインカビリアとともに打線の核として期待された。

 開幕からはユニフォームを一新。ピンストライプで左胸に「M」のマークをあしらった、現在の基礎となるシンプルなデザインとなった。

4月1日の開幕戦、新しいビジターユニフォームで勢ぞろいしたロッテナイン。この年のオープン戦まで着用したピンクを基調としたユニフォームとは、まったく趣が変わった


 各球団とも新ユニフォームは前年のオフに公開され、キャンプインと同時に披露することが多い。この年のロッテのように、オープン戦までは前年と同じもので試合を続け、予告なく開幕から新ユニフォームに変えることは珍しい。当時の関係者は「バレンタイン監督が重光(重光昭夫)オーナー代行に気をつかい、オープン戦まではピンクのユニフォームで戦った」と話していた。

 95年は1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件と世間が騒然とする中で、プロ野球はセ・リーグよりも6日早く4月1日にパ・リーグが開幕。ロッテは前年の最多勝投手だった伊良部秀輝が先発したが、オリックスに2対3で惜敗した。

 その後も弾みはつかず、開幕から16試合で4勝12敗とスタートからつまずいた。一時は最下位を脱出したものの、6月10日から18日まで1分けを挟む7連敗。借金は「11」にまで膨らんだ。

 低迷の原因は明らかだった。チーム打率はリーグ4位の.242で、1試合平均得点はリーグ最下位の3.07点。5位の日本ハムにすら0.53点も引き離されていた。加えて、チーム本塁打数もリーグ最少の28本。これは、リーグ最多の西武の半分だ。

 データからは長打や安打数が少なく、得点効率も悪い姿が浮かび上がる。投手陣は1試合平均失点がリーグ3位の3.95点と踏ん張っていたものの、これではなかなかチームの白星にはつながらない。

 期待したインカビリアの成績が上がらなかったことも低迷につながった。6月18日時点でリーグ最下位の打率.167、5本塁打、17打点。開幕から4試合で早くも四番を外され、4月下旬以降は主に五〜七番を任されることが多かったが、リーグ3位タイの51三振と粗さが解消されなかった。選手起用に関して広岡GMが口を挟むことも、よくあったという。その後、インカビリアはスタメンを外れることが多くなった。

コミュニケーションを重視しチーム掌握とともに浮上


 すると、チームはここから逆襲に転じた。6月20日からの4連勝で最下位を脱出。7月2日からの6連勝で一気に借金を完済すると、同15日の近鉄戦(千葉マリン)に5対2で快勝し、同年初の貯金「1」となった。球宴までの24試合は18勝6敗。首位を独走するオリックスには早くも優勝へのマジックナンバーが点灯していたが、2位の西武には3ゲーム差と迫った。

 後半戦も勢いは続いた。8月は13勝11敗と勝ち越し、西武をかわして2位浮上。9月も6連勝を含む14勝8敗でシーズンを終えた。95年は69勝58敗3分けでリーグ2位。年間勝率が5割以上だったのは85年以来、10年ぶりだった。

 当時の守備コーチだった江藤省三氏は、6月後半から巻き返しに成功した理由の一部がバレンタイン監督の変化にあるとして、次のように話した。

「結果が出ていた選手を重点的に使うようになった。また、選手を乗せるのが本当にうまかった。安打を1本打っただけでほかの打席がダメだった選手にも『よく1本打った』と褒めていた。そりゃ、選手は気分がいいよね」

 日本で選手やコーチの経験がない外国人新監督は球界初。選手はバレンタイン監督の考えなどが分からず、同監督もチーム内外の事情や選手のことが分からなかった。チーム内でも開幕当初は手探りの状態だった。そのため、バレンタイン監督は選手とのコミュニケーションを重視。対外的には「チームは一つのファミリーだ」と一体感を強調し続けた。

選手を乗せるうまさは抜群。春先は調子が上がらなかったが、バレンタイン監督[左]がチームを掌握するとともに、夏場から成績は上向いていった。右は初芝


 攻撃面では戦い方が変わり、打順を固定したことが奏功した。6月中旬までは三番に5人、四番に3人、五番に4人を起用。一番には何と7人も起用していた。ところが、選手の力量を把握するとクリーンアップは堀幸一、フランコ、初芝清で固定するようになった。6月18日以降は初芝以外が五番だった3試合を除き、全試合が同じクリーンアップ。一番も、同期間に諸積兼司以外だったのは5試合だけだ。

 シーズンの成績は堀がリーグ2位の打率.309、フランコが同3位の打率.306、初芝が同4位の.301。リーグの3割打者は首位打者のオリックス・イチローを含め4人しかいなかったが、そのうち3人をロッテのクリーンアップが占めた。初芝は80打点でイチロー、日本ハム・田中幸雄とともに打点王を獲得した。

 諸積もリーグ6位の打率.290をマーク。24盗塁はリーグ3位だった。シーズンを通した1試合平均得点はリーグ4位の3.70点。他の打順は依然として日替わりの傾向が強かったものの、起点と軸が安定したことで得点力が上がった。

選手の状況見極め自在タクト投手起用法にも冴え


 投手陣は、開幕から伊良部、小宮山悟、新外国人のエリック・ヒルマンの3本柱を軸に先発ローテーションを組んだ。相手チームや3連戦の初戦などの状況に関係なく、基本的に小宮山は中5、6日で先発起用し、伊良部とヒルマンは主に中4、5日で起用。小宮山には右ヒジの不安を考慮し、5月中旬と8月中旬に登録抹消で約2週間ずつの休養を与えた。

 8月13日の西武戦(千葉マリン)では、11日の同カードで3回途中6失点でKOされたヒルマンを中1日で先発起用する驚きの采配もあった。前年から予告先発制度が導入されていたため、奇襲の意味合いは薄い。試合には負けたものの、ヒルマンは8回を2安打無失点と好投した。

 3人の防御率は伊良部が2.53でタイトルを獲得し、小宮山はリーグ3位の2.60、ヒルマンは同4位の2.87。3人とも2ケタ勝利を挙げ、伊良部は最多奪三振のタイトルも獲得した。

 伊良部の活躍は、ピオリア春季キャンプにも遠因があった。ブレーブスなどで活躍し、コーチとしても多くの名投手を指導したトム・ハウス氏が巡回コーチとして投手陣を指導。同氏の教え子だったノーラン・ライアン氏もキャンプ地を訪れた。両氏はミーティングで伊良部にシャドー・ピッチングを熱心に教え、伊良部も熱心に取り組んだ。そして、バレンタイン監督は両氏に「ぜひメジャーでやらせてみたい」と話したという。

アリゾナ州ピオリアでのキャンプで伊良部のピッチングを見るノーラン・ライアン氏。伊良部にとって、同氏の指導はより大きく成長するきっかけの一つとなった


 救援陣では吉田篤史の復活が大きかった。右肩痛などで過去2年間はほとんど登板できなかったが、この年の6月下旬に一軍へ合流。主にセットアッパーとして25試合に登板し、防御率1.00と安定感を発揮した。

 成本年秀河本育之のダブルストッパーも機能した。開幕直後は成本が一人で抑えを任されていたが、7月中旬から河本と併用。成本は単独守護神だった7月中旬までは27試合のうち12試合で2イニング以上を投げていたが、河本との併用後は17試合のうち3試合に減った。

 吉田の復活で抑えの2人に掛かっていた負担も減った。成本はリーグ3位タイの21セーブ。意気に感じるタイプの河本も2カ月あまりで10セーブを挙げた。吉田の合流を境に両投手の防御率も向上。成本は2.25から1.67へ、河本も2.20から1.36へと数字を上げた。

 9月15日からは、リーグ優勝へのマジックを「1」としていたオリックスとの敵地での3連戦に3連勝した。先発した3本柱の伊良部、小宮山、ヒルマンが好投。1月の震災で大きな被害を受けた被災地の復興に力を与えようと、「がんばろう神戸」をスローガンに戦ってきたチームが悲願の地元V達成という感動の場面を目前に、最後の意地を見せた。

 この時、オリックスの仰木彬監督は江藤氏に「来年は一番怖いチームになるな」と声を掛けたという。しかし、この時点で既にバレンタイン監督の解任は決まっていた。

球団内部の主導権争いで広がったGMと監督の亀裂


 当初、バレンタイン監督は広岡GMに追随していたという。しかし、これは本意ではなかったようだ。当時の球団関係者は、こう振り返った。

「監督からすればGMは絶対。米国では逆らったらクビになるのが当たり前だから、バレンタイン監督もそのあたりのことは分かっていたと思う。表向きは逆らっていなかったが、その代わりにコーチらへホコ先が向かうようになっていた」

 チーム内の規律も緩かった。シーズン中にはレン・サカタ二軍監督が家族を東京ディズニーランドへ連れて行くため、急きょ練習が中止になったこともあった。

 6月中旬までの低迷に危機感を感じた広岡GMが現場に介入。それでも、バレンタイン監督は自身の考えで采配を続けた。両者の距離が離れ始め、人事権を持つ広岡GMがバレンタイン監督を解任した。

並んで笑顔で練習を見守る広岡GM[左端]とバレンタイン監督[右端]。キャンプの時点ではこのように2人の間のムードも悪くはなかったのだが……


 広岡GMには、ダイエーの球団専務として辣腕を振るっていた根本陸夫氏への意識があった。根本氏は西武を管理部長として黄金時代に導き、94年限りでダイエーの監督を退いたあとは実質的なGMに専念。早速、同年オフには古巣から工藤公康投手と石毛宏典内野手をFAで獲得した。西武時代は管理部長と監督の関係。「初の本格的なGM」が「実質的な初のGM」を上回る成果を出そうと考えても不思議ではない。

 バレンタイン監督も、一介の雇われ監督に甘んじるつもりはなかった。ロッテを退団後は米球界に復帰。メッツの監督としてワールドシリーズにチームを導いた。2004年にロッテの監督へ復帰すると、05年にはプレーオフを勝ち抜いて31年ぶりのリーグ優勝を達成し、日本一にまで上り詰めた。

シーズンの終盤には広岡GMとバレンタイン監督の確執はファンにも知られるところとなった。ファンの中では好成績といいムードをもたらしたバレンタイン監督を支持する声が多く、スタンドにはこんな横断幕も


 その後は球団内に影響力を強め、09年まで監督を務めた。政権末期は全権監督に近い形として、コーチ人事や外国人の補強などを意のままに進めたという声もある。ノックもできないコーチを連れてきて、「キャンプで最大の成果はコーチのノックがうまくなったことだ」と揶揄(やゆ)されたこともあった。95年6月下旬からの好成績で自信をつけ、後に見せるようなワンマン体質の地が顔を出してきたのかもしれない。

 好成績を残しながら球団内部の主導権争いが発生し、バレンタイン監督は1年で退いた。96年は、二軍ヘッドコーチだった江尻亮氏が監督に就任。しかし、夏場に失速してリーグ5位とBクラスへ転落した。広岡GMと、早大の後輩だった江尻監督は同年限りで退団。チームは04年まで9年連続Bクラスと再び低迷期に入ることになった。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 パ・リーグ編 2021年12月23日発売より

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