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<激震STORY>1990年代事件史 球史を騒がせた衝撃のドラマ【セ・リーグ編】

 

「野球選手がスマートになった」と言われる90年代だが、グラウンド内外での事件は変わらず多い。世間を騒がせた事件をいくつかピックアップしてみよう。
【パ・リーグ編】はこちら

【事件1】ガルベスが審判に殺人球! [1998年]



 98年7月31日、阪神-巨人戦(甲子園)で事件が起こった。巨人の先発はガルベスだったが、立ち上がりから味方のエラーや審判のジャッジにいらつきまくっていた。0対5と敗色濃厚となった6回には先頭の坪井智哉の打席で内角の際どい球をボールと判定されて、完全にプッツン。そのあとハーフスピードの球をホームランされ6点目を許した。ガルベスは橘高淳球審に何やらわめきまくり、投手交代となってもベンチに戻らず文句を言い続ける。異変を感じた巨人・長嶋茂雄監督らが飛び出し、ガルベスをベンチに引き戻すが、今度はベンチ前から審判に向かってボールを投げつけた。すぐさま退場を告げられたが、そこからさらに暴れた。翌日セ・リーグからシーズンいっぱいの出場停止処分、巨人からは無期限出場停止処分が発表された(翌年には復帰)。

【事件2】広島市民球場にクモ男が登場! [1990年]



 90年5月12日の広島-巨人戦(広島)。5回裏が終わった時点で2対1と巨人がリードし、広島先発・川口和久が投球練習を始めようとしたときだった。黄色い風呂敷を頭にかぶり、地下足袋にリュックサックを背負った男がネット裏に現れ、一塁側のネットを昇り始めた。男はネットの最上段近くにたどり着くと、縦3メートル、横25センチほどの垂れ幕を次々かけていく。書かれていたのが「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅! 悪ハ必ヅ滅ビル!」。その後、手製の手裏剣や発煙筒をグラウンドに投げ込み、なかなか降りてこなかった男に徐々に客席もいら立ち、罵声が飛び、「降りろ」コールとなった。およそ9分後、男は駆け付けた警察官に威力業務妨害の現行犯で逮捕された。

【事件3】GS開幕戦での「疑惑の本塁打」 [1990年]



 90年4月7日、東京ドームで行われた巨人-ヤクルトの開幕戦だった。ヤクルト先発の内藤尚行は立ち上がりから素晴らしいピッチングを見せる。3対1とヤクルトがリードして迎えた8回裏一死二塁。巨人、篠塚利夫の打席だった。初球、体勢を崩しながら篠塚がたたくと右翼ポール際のファウルゾーンに飛び込む。一塁塁審のジャッジはホームランだったが、ライトの柳田浩一が「ファウルだ」と抗議。ヤクルト監督1年目の野村克也監督も飛び出したが、5分間の抗議のあと、あきれたような顔で引き揚げた。この年、セでは審判4人制がスタート。外野の線審がいなくなった。試合後、野村監督は「あんなホームランあるか! 俺の筋書きにないことが起こった。巨人が強いはずだよ」と吐き捨てた。

【事件4】センスがないのでと新庄引退宣言! [1995年]



 95年12月5日、契約更改の席で阪神・新庄剛志は「阪神をやめたい。環境を変えてほしい。ダメなら野球をやめるしかない」と言い、藤田平監督(代行から新監督へ)、球団の体質などへの不満を次々とぶつけ、横浜への移籍を希望、通らないなら引退すると告げた。新庄と96年から一軍監督となることが決まっていた藤田平監督との確執の発端は、7月23日、ファームの練習に遅刻してきた新庄に藤田監督が練習参加を認めず、足首を痛めて二軍調整していたにもかかわらず、1時間の正座を命じたことだった。その後、藤田監督が「親のしつけの問題」と言ったことで新庄はさらに気持ちを硬化。19日、「野球に対するセンスがないからやめます」と引退を断言。しかし、21日には引退を撤回している。

【事件5】日米のギャップ? ディミュロ審判帰国! [1997年]



 セは97年、審判員の国際化と技術向上を目的にアメリカ3A所属のマイケル・ディミュロ審判を1年契約で招へいした。だが審判の権威が絶対であるアメリカと、審判への抗議が常態化していた当時の日本球界では立ち位置が違う。当初からディミュロ審判の態度が「日本球界を下に見ている」ように映り、不穏な雰囲気が流れていた。決定的だったのが6月5日の中日-横浜戦(岐阜長良川)。ディミュロ審判の「ストライク」のジャッジに、中日・大豊泰昭が抗議するとすぐさま退場を命じた。そのあと怒った大豊から小突かれ、さらにベンチから星野仙一監督らが一斉に飛び出し、自分に向かってきたことで「身の危険を感じた。もう日本ではやっていけない」と4日後には帰国を決めた。

【事件6】史上初、サヨナラ本塁打に代走! [1991年]



 91年6月18日の大洋戦(ナゴヤ)。中日は同点で迎えた延長10回裏、大洋の盛田幸妃から彦野利勝がレフトへのライナー性の当たりで全力疾走。そして「一塁ベースを回る手前で右ヒザがガクッときて」(彦野)そのまま横転。右ヒザを抱え込み、動かなくなった。ここで審判団は星野仙一監督に代走を要請。山口幸司が代わりにサヨナラのホームを踏んだ。本塁打で代走を出す珍事は史上2人目。1969年に近鉄のジムタイルが一塁ベース手前で左足肉離れを起こし、伊勢孝夫が代走を務めている。しかし、このときはサヨナラ本塁打ではない。彦野は試合後、「2、3日あれば大丈夫」と話していたが、診断を受けると右ヒザ捻挫で全治3週間。その後の検査でじん帯断裂が発覚し、長期離脱となった。

【事件7】チェコのメジャー移籍騒動! [1995年]



 92年、ドミニカカープアカデミー出身のロビンソン・チェコは広島と正式に選手契約を結んだが、故障もあって一軍登板はなし。94年には台湾・時報でプレーし、95年、広島と再契約した。同年、先発ローテに定着し、15勝を挙げる大活躍。106の背番号ながらオールスターに監督推薦で出場している。しかし、8月になって突然、「新たなボーナス契約を結ばなければ先発したくない」と先発を拒否。球団側から「先発しないなら二軍」と言われ、撤回する騒動を起こした。さらに同年、11月7日、チェコが代理人契約を結んだダン野村氏が広島球団に対し、チェコの契約解除を一方的に通告。メジャー球団との交渉を開始した。結局、翌96年の1年を広島でプレーし退団。希望どおりレッドソックスに入団した。

週刊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球 EXTRA1 セ・リーグ編 2021年11月30日発売より

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