「野球選手がスマートになった」と言われる90年代だが、グラウンド内外での事件は変わらず多い。世間を騒がせた事件をいくつかピックアップしてみよう。 【セ・リーグ編】はこちら 【事件1】世界の王に生卵が! [1996年]
5月9日、日生球場の近鉄-ダイエー戦。試合後、ダイエーの移動バスを怒り狂ったファンが取り囲む。50個あまりの生卵、さらに石、靴などが投げつけられ、罵声が飛んだ。「出てきて謝れ、サダハル!」「パ・リーグの恥!」「腹を斬れ!」。この日、試合中からヤジが飛び、前述の罵倒を文字にした横断幕が張られる。「南海復活」と書かれたものもあり、南海の応援歌が流れたりした。試合は2対3でダイエーが敗れ、4連敗。開幕から9勝22敗となり、ついに勝率3割を切る。試合終了直後には発煙筒、さらに100本以上のメガホンがグラウンドに投げ入れられた。「勝てば文句はないはず。この人たちも拍手を送ってくれるはずだ。俺は絶対、辞めない」。
王貞治監督は、眉間にシワを寄せながら言った。
【事件2】トラブルメーカー、ミッチェル大暴れ! [1995年]
1994年オフ、ダイエーが1年契約で前レッズの
ケビン・ミッチェルと契約。MLBで本塁打王、打点王、さらにMVPにも輝いた大物ながら、超問題児としても有名な男だった。無断欠勤と行方不明の常習犯で、ほかにも恋人へのDV、レイプ疑惑などなど。それでも開幕戦となった翌年4月1日の
西武戦(西武)で、初回の初打席で満塁ホームランのド派手デビューで王貞治監督を喜ばせた。しかし徐々に“悪いミッチェル”が顔を出してくる。欠場、途中欠場が相次ぎ、5月26日には「日本人は汚い。嫌いだ」と捨て台詞を残し、無断帰国。7月21日に再来日も、記者会見を「疲れたから」とすっぽかし、その後、2度目の無断帰国でついに解雇。その後も年俸の支払いをめぐり、裁判沙汰になっている。
【事件3】8球団競合の小池がロッテを拒否! [1990年]
1990年秋のドラフト会議。注目は亜大の即戦力左腕・
小池秀郎だった。小池は「
巨人、西武、
ヤクルト以外なら熊谷組に行きます」と公言していたが、会議では前年の
野茂英雄に並ぶ史上最多タイの8球団が1位指名。しかし、皮肉にも「絶対避けたい球団」と言っていた
ロッテが交渉権を獲得。ロッテ・
金田正一監督が会場でガッツポーズをした。しかし、その瞬間、小池が待機していた亜大の大ホールは、集まっていた一般学生の悲鳴とため息で包まれる。表情を曇らせた小池は「今は何も言えません。頭が真っ白です。いろいろな方に相談しなければなりませんが、ロッテの方と会うことはありません」と15分で会見を切り上げ、雲隠れ。結局、小池は拒否の姿勢を貫き、翌年、松下電器に入社した。
【事件4】大騒動の末、野茂がメジャーへ! [1995年]
1994年の近鉄・野茂英雄は右肩痛に苦しみ、球宴以後は1試合登板のみでシーズンを終わった。オフ、野茂は複数年契約と代理人制度を希望も球団が拒否。球団は年俸のつり上げのためと解釈していたが違った。もともと抱いていた球団フロントへの不満。
鈴木啓示監督との確執。そして、もう1つ、ひそかに抱き続けてきた夢へも本格的に動き始めていた。翌95年に入り、球団は野茂を任意引退に。任意引退は自由契約とは違い、近鉄以外の球団では復帰できないルールだが、米球界とは関係がない。後年、この年、野茂から相談を受け、その後、正式に代理人となった団野村氏が「これは作戦だった」と明かしている。野茂と団野村氏。2人のゴール地点は、最初から「メジャー挑戦」で決まっていた。
【事件5】広岡GM×バレンタイン監督! [1995年]
5位に終わった1994年オフ、ロッテは
広岡達朗とGM契約。そして広岡GMが「日本に適任者はいない」とチームを再建するために推薦したのがMLBで監督経験があるバレンタイン監督だった。当初、両者の関係は円滑だったが、次第に意見が対立。原因は野球観の違いだ。例えば練習試合。バレンタイン監督はメジャー流に短く、休養日も設定したが、広岡GMは「練習量が足りない」と批判。バレンタイン監督に黙ってコーチに直接接触するようになり、2人の亀裂は決定的なものになる。最終的に95年は2位躍進と結果を出したバレンタイン監督だったが、シーズン終了後、解任。広岡GMは「優勝できるかどうかというと問題があると判断し、オーナー代行に判断していただいた」と話していた。
【事件6】伊良部が日米の三角トレード! [1997年]
1996年6月28日、東京ドームの
日本ハム戦で途中降板した
伊良部秀輝は、試合後、「あのおっさん、社会人としておかしいでしょ。何で気持ちの問題と言われなきゃいかんの。おかげで2年間最悪や。もうメジャーにトレードで出してくれ」。もともとメジャー志向が強かったが、広岡GMへの反発から一気に思いが爆発したようだ。広岡GMは5位低迷の責任から解任となったが、その後も移籍騒動は収まらず、年が明けロッテはシーズン中からGMが訪れるなど交流があったパドレスに伊良部の独占交渉権を与えるも、これに対し伊良部は「行きたいのは
ヤンキース。パドレスには絶対行かない」と反発。その後、ロッテ、パドレス、ヤンキースの三角トレードでヤンキース入りを果たすことになる。
【事件7】上田監督が家庭の事情で休養! [1996年]
「自分の子どもの指導教育ができない人間に戦う集団を引っ張っていく資格はない」。
オリックスと優勝を争っていた日本ハムの
上田利治監督が9月10日、東京ドームでのオリックスとの直接対決2連戦の試合前に突然の休養宣言をした。11日には本人が会見し、理由として家族の宗教問題を挙げている。就任2年目の上田采配が冴(さ)え、前半戦首位を独走していた日本ハムだが、後半戦に入り失速。この時点で日本ハムはオリックスに4.5ゲーム差をつけられていたが、まだまだ逆転の目はあった。佳境での突然の職場放棄にナインは戸惑い、ファンがしらけてしまったのは事実だ。上田監督は10月1日、東京ドームに現れ、選手に対し、直接事情説明と謝罪。3日には正式に監督復帰が決まった。
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