
イラスト=イワヰマサタカ
1940年の秋季リーグ開催前、日本野球連盟(現NPB)は理事会で、ルールの一部やチーム名、マークなどの日本化を決めた。日中戦争の開戦以来、欧米各国との軋轢(あつれき)が広がる中、アメリカ生まれの野球に対する逆風もあり、時局に忖度しての決定だった。阪急は胸マークの「H」を剥がし、袖に社章をつけて、秋の日本野球連盟戦(リーグ戦から改称)に臨んだ。この当時の阪急の社章は沿線である大阪市と神戸市の市章を組み合わせたデザインだった。
秋季リーグは東京
巨人軍が11月に3連覇を決めたあとも、阪急は
阪神と2位争いを繰り広げた。決着がついたのは12月1日。阪神キラーの異名をとっていた
浅野勝三郎を先発に送ったが、5回からリリーフでマウンドに上がった
森弘太郎が打たれて1対5で敗れ、3位で終えた。
しかし翌41年、森も阪急もリベンジを果たす。春の「日本野球連盟戦」で森は8連勝と快調に飛ばした。
打線が振るわず春季は4位だったが、夏季リーグは
井野川利春監督得意の機動力野球で7月後半から8月にかけて12連勝。39年春季以来・・・
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