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綱島理友のプロ野球ユニフォーム物語

プロ野球ユニフォーム物語 第39話「消滅球団編 Vol.10」

 

イラスト=イワヰマサタカ


 日本野球連盟(現NPB)による野球の日本化は、1940年の秋季リーグ開催前の理事会で決定した。ルールの一部やチーム名などの日本化が決められ、ニックネームが英語の東京セネタースは東京翼と改称した。これは公募で集まった名称の中から、オーナーの有馬頼寧伯爵が事務総長を務めていた大政翼賛会の「翼」と、飛行機の「翼」にも通じるという理由から採用された。

 ところが東京翼という名称は、ごく短い期間で姿を消している。

 翌41年、東京翼は名古屋金鯱と合併。チーム名を大洋と変更した。

 東京翼のユニフォームについては資料がほとんど残っていない。公募を行い、名称が決定したのが10月17日。シーズン終了は12月8日。その活動期間はわずか1カ月半ほど。当時の雑誌「野球界」などに苅田久徳監督や選手たちの写真が少し掲載されているが、着ているのはどれも、マークを外したセネタースのユニフォームだ。「翼」という漢字のマークを帽子につけていたという説もあるのだが、マークを外した帽子をかぶった写真しか見当たらない。とりあえず今回は、「翼」のマークがついていたら、こんな感じだったのではないかというイラストをイワヰ画伯に起こしてもらった。

 合併話は40年の秋季連盟戦中に水面下で交渉が行われていた。戦後の52年にプロ野球史家の大和球士がこのときの合併について「ベースボール・マガジン」に書いている。それによると、翼、金鯱両球団ともに戦時下の応召による選手不足と赤字に悩まされていた。ともに40年の欠損が3万円から4万円。合併後は翼側の有馬頼寧、金鯱側の大宮伍三郎が毎月1000円ずつ支給してチーム運営をサポートすることを約束。合併で赤字を2万円くらいに抑えたいというそろばん勘定もあったという。

 さらに選手不足も合併理由の一つだったが、いざ一緒になると若干の余剰選手も出た。柳鶴震を南海、松本利一を阪急、内藤幸三五味芳夫を朝日という具合に選手不足のチームに振り分けた。

 監督の問題もあった。翼は苅田、金鯱は石本秀一が指揮を執っていた。

 ひとまず石本は背広の総監督、苅田が現場の監督となった。

 滑り出しの41年春季リーグは2位の好成績を収めた。そして夏季は3位。ここまではまずまずだった。

 しかし秋季5位に転落。合併球団の兼ね合いもあり、苅田は石本に監督を禅譲、42年のシーズンは自ら一選手としてプレーする道を選んだ。

 そして5月20日、後楽園球場で名古屋相手に当時の世界記録、史上最多イニングの延長28回を戦うことになる。大洋・野口二郎、名古屋・西沢道夫の先発で始まった試合は9回に名古屋軍が4対4の同点に追いつく。そしてそのあとは野口、西沢両投手が好投。スコアボードには28回まで0が並んだ。結局、6時27分。日没で引き分けた。

「いやはや、あの試合は疲れたよ。ヘロヘロで試合をやっていたな。最後は走れないし、バットも振れない。あれだけは忘れられない試合だ」

 晩年の苅田さんからこう聞いた。

 大洋軍の球団マークは、大洋の大の文字が周囲の円となって、洋の文字を囲むデザイン。日本的な企業マークの雰囲気だ。ユニフォームにも装着され、帽子には大の文字の下部をカットした円形のマークをつけていた。世界記録の試合では白いユニフォームが使用された。(文・写真彩色=綱島理友)
綱島理友のプロ野球ユニフォーム物語

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職業野球として日本のプロ野球が創設された戦前の時代から、プロ野球で使用されたユニフォームすべてを網羅した図鑑が完成するような連載

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