
イラスト=イワヰマサタカ
やがて8月に終戦を迎えることになる1945年の3月、
阪神、阪急、朝日、近畿日本の関西4球団の残存選手を集め、2チームに分けて最後の試合を西宮球場で開催しようという試みがあった。朝日の
坪内道則は試合に参加するために奈良県の御所から出掛けようとしたが、阪神地区に空襲警報が発令されたため鉄道が運休。西宮行きを断念した。
この日は実際に空襲が行われ、試合自体も中止となっている。しかし終戦間際の戦時下においても、まだまだ野球興行を続けようとしていた人たちがいたことに驚かされる。
戦時下、坪内をはじめとした朝日の選手たちが身を寄せていたのが、球団のマネジャーだった橋本三郎が経営する奈良の軍需工場だった。
御所工業学校の中に、橋本の実家が経営する大阪の工場を疎開。選手たちはそこで船舶の送風機などを製作して生計を立てていた。
8月15日の終戦は橋本にとって・・・
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