
イラスト=イワヰマサタカ
1945年8月の終戦から2カ月後の10月。東京
巨人軍の親会社・読売新聞社では、戦後民主化の波の中で、労働組合が生産管理闘争を開始。新聞の編集、製作、発送を組合が自主管理する、いわゆる読売争議と呼ばれる紛争が勃発した。12月に一旦終結するが、128日間続いた争議の間、新聞社内はしばらく野球どころではない状態に陥った。球団は独自に動くしかなく、翌46年の春のキャンプは主将の
千葉茂が中心となって選手自らが走り回り、食料の確保からユニフォーム発注まで準備を行った。言ってみれば、こちらも自主管理状態になっていた。
シーズンは4月27日から開幕するが、巨人軍の戦力は乏しかった。
沢村栄治と
吉原正喜のバッテリーは戦場に散り、
水原茂はシベリアに抑留、
ヴィクトル・スタルヒン、
白石敏男、
川上哲治、
中島治康などの姿もなかった。しかし6月になると、中島が選手兼任監督として復帰。続いて川上も戻った。巨人軍はそこから巻き返し、ペナントレース終盤は、戦前に南海軍として発足した近畿日本グレート・
リングと優勝を争った。
だが、近畿日本が球団創設以来初の優勝を飾り、東京巨人軍はわずか1ゲーム差の2位に終わっている。
プロ野球は・・・
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