
イラスト=イワヰマサタカ
戦後、焼け跡の中のプロ野球と言えば、「川上の赤バット」に「大下の青バット」だ。
大下弘は明治大学からセネタースに入団したが、戦時下の東京六大学リーグは休止。世間に知られる機会はなく、戦後になって突然、彗星のごとく現れたスターだった。46年から始まったリーグ戦で大下は大活躍。新興球団セネタースは大ブームを巻き起こした。
ところがシーズンが進むにつれて、球団は財政難に陥っていく。プロ球団の運営は予想以上に金がかかった。
プロ野球史家の
大和球士が50年代の野球雑誌に当時のセネタースについていろいろと書き残している。
それによると、当初のスポンサーは横浜の土建業者の安藤国夫と川口証券の川口真一郎だった。しかし2人はすぐに音を上げてしまった。
セネタースは監督の
横沢三郎と・・・
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