
イラスト=イワヰマサタカ
戦後、お家騒動で弱体化した
中日ドラゴンズ。1949年、チーム立て直しの切り札として天知俊一が監督に就任した。しかしここに至るまでの話は少々ややこしい。
戦時下、新聞統制令の影響で中部日本新聞傘下に留まることが難しくなったドラゴンズの前身である名古屋軍は、軍需産業の理研工業に移籍。チーム名も産業軍に改められた。厳しい状況の中でチームをまとめ維持し続けたのが球団代表の赤嶺昌志だった。
戦後、中部日本新聞傘下に戻りチームは中部日本に改称。すると、本社と監督人事などを巡って主導権争いの内紛が勃発する。その結果、中日ドラゴンズとさらなる改称をした47年シーズン終了後の11月1日、赤嶺は球団代表を解任された。
これに反発したのが戦時下、赤嶺に世話になった選手たちだ。12人が脱退。そのうち8人が・・・
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