
イラスト=イワヰマサタカ
終戦から4年の時間が経過した1949年、日本野球連盟は大量の加盟申し込みで揺れていた。この年の2月にコミッショナーに就任した正力松太郎だったが、公職追放中だったためにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の一部から異論が出て辞任した。しかし4月15日に改めて社団法人・日本野球連盟名誉総裁に就任。記者会見で今後の方針を語る中で「将来はアメリカのような2大リーグ制にしたい」という談話を発表した。これを連盟の門戸開放ととらえた企業や団体から加盟申し込みが殺到。大騒ぎとなっていたのである。騒ぎはやがてセ・パ2リーグの分立へとつながるのだが、当時の日本球界はもう一つ、サンフランシスコ・シールズの来日という大イベントを控えていた。
米国のプロ野球チームの招請は、GHQの占領政策の一環として47年ごろから計画されていた。しかし空襲で焼け野原の日本。米国の野球チームが宿泊できるような施設はなく、計画は延び延びになっていた。
だが、戦後4年、復興も進み施設も整ってきた。シールズは・・・
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