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思い出球人 波乱万丈のプロ野球回顧録

坂巻明(元日本ハムほか) 球界に尽力した42年「あり得ないようなこともいっぱいありましたし、いろいろな経験をしました」

 

激動の野球人生である。大学を中退し、一度は白球の道にピリオドを打った。しかし、あきらめ切れなかった。ドラフト外でプロの門をたたき、不屈の精神力ではい上がってきた。(一部文中敬称略)
文=尾辻剛 写真=BBM

1976年オフに入団テストを受け、77年ドラフト外で日本ハムに入団。11年にわたり、愛着のある背番号『47』を着けた。今も大事に当時のユニフォームを保管している


中退後は仕事に専念


「二刀流」と言えば、誰もがドジャース・大谷翔平を思い浮かべるだろう。2度目の右肘手術を経た大谷が二刀流の完全復活に向けて態勢を整える中、自分こそが“元祖二刀流”と胸を張るのが、元日本ハム右腕の坂巻明である。連日のようにメディアをにぎわせるスーパースターについて「本当、大谷はすごいですよね」という坂巻は「でもね、『日本ハムの二刀流』は大谷より俺が先なんですよ」と力説する。現役時代、投手ながらファーム公式戦で2度もサヨナラ安打を記録しているのだ。2018年限りでロッテ寮長を退任後は球界を離れ、野球をやっている孫の成長を支えながら静かに暮らしている。5月に古希を迎えたNPB球界の功労者が、節目の年に長く携わった球界での印象的な出来事を振り返った。

 1955年生まれの坂巻は早くから野球の才能を発揮。二松学舎大付高では1年生だった1971年夏の東京大会で「四番・一塁」としてけん引し、決勝に進出した。相手は保坂英二を擁する日大一高。同年のドラフト2位で東映入りする左腕に翻弄されて無安打のまま途中交代し、チームも2対12の完敗だった。覚えているのは猛烈な暑さ。試合中、水を飲むことを許されない時代で、お尻のポケットに入れていたタオルを水で洗い「顔を拭くふりして、タオルを吸って飲んでいたんです。大変な時代でした」と回顧した。

 3年時には、野手として登板した紅白戦で快投したことをきっかけに投手にも挑戦。甲子園出場こそ縁がなかったものの、投打で強烈な存在感を示した。

 進学した青学大では投手に専念して1年春から登板。社会人野球・東芝に進んでいた同大学OBの大田垣耕造(シドニー五輪日本代表監督)からは「卒業したら東芝に来い。入社を決めておくからな」と声を掛けられていたという。

 ところが──。2年夏に父・正三郎さんが脳梗塞で倒れて入院したのである。姉4人と兄は既に就職。実家は埼玉県草加市内で食料品店を営んでおり、6人きょうだい末っ子だった坂巻は「大学をやめて手伝うしかない」と中退を余儀なくされたのだ。「兄貴は銀行員だし、姉ちゃんは市役所勤務とかで、辞めさせたらかわいそうだったからね」。自身が犠牲となって実家を手伝いながら、親戚の病院で「臨床検査技師みたいなこともやりました」とさまざまな仕事をこなして過ごしていた。

二軍で2度のサヨナラ打


 野球から1年半以上離れていたある日。76年、新聞に日本ハム入団テストの案内が載っているのが目に留まる。「お前が野球をやっている姿をもう一度、見てみたい。テストを受けてくれないか」という周囲の声にも背中を押されて受験。約50人が参加した中・・・

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