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99年、福岡の空にようやく王貞治の体が高く、高く舞った。それまで輝かしいまでの実績を積み上げてきた世界の王が、決して明るい前途が開けていたわけではないチームの指揮をなぜ引き受け、チーム強化に心血を注いだのか。就任5年目、歓喜のVにこぼしたセリフに王貞治の野球への愛が詰まっていた。
写真=BBM

▲9月25日の日本ハム戦に勝利し、ホークス福岡移転後初のリーグVを達成し、福岡ドームの宙に舞った



苦しくなったときは
社長の姿を発奮材料にしようじゃないか

 両手を広げた華麗な“フォーム”は最後まで崩れなかった。苦節5年、手塩にかけて育て上げた若鷹の手によって、王貞治監督は福岡ドームで4度舞った。

「広い宇宙で一人だけという最高の気分だった」。1963年の西鉄以来、36年ぶりに関門海峡を渡ったペナント。ダイエー球団創立11年目、悲願の初優勝だった。

 88年に巨人の監督を解任されたあと、さまざまな球団から監督就任を要請された。ダイエーだけでなく、西武ロッテオリックスヤクルト……。その中からダイエーを選んだのは「可能性を感じた」からだ。95年に就任。勝利に対する選手の気持ちの希薄さは、一番のカルチャーショックだった。

 万年Bクラスに低迷していたことで「優勝」の目標に向かって一丸となる姿勢が足りなかった。負けが込むと緊張の糸が切れたように個人の成績に走りがちになる選手たち。1年目は5位、2年目の96年は最下位に沈む。97年も4位に甘んじた。ペナント争いとはまるで無縁の番外地に置かれ続けた。「気持ちが淡泊というか、常に勝つことを求められた巨人とは違う。そこからのスタートだった」

 問題児のケビン・ミッチェルに去られ、ファンから生卵を投げつけられた。脱税事件、スパイ疑惑も。本社の経営難から球団の身売り説も毎年のように浮上。それだけではない。ホークスに招へいし、最大の理解者だった根本陸夫社長も、99年の4月30日に他界。

「僕らのやることは変わらないが、苦しくなったときは社長の姿を発奮材料にしようじゃないか。社長は優勝を望んでおられた。それに向かって頑張ろう」。遺影に必勝を誓った一方で...

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