1975年11月25日、当時の球界を揺るがす大型トレードが発表された。
東映・張本勲と巨人・高橋一三と富田勝による1対2のトレード。
同年、長嶋茂雄監督就任1年目に、球団史上初の最下位に沈んだ巨人は、長嶋に代わる主砲を欲していた。そこに舞い込んだ球界屈指の安打製造機の“売り”情報。
球団フロントの反対を押し切って「張本獲得」に至った経緯と、球界の盟主・巨人ゆえに抱えるトレードの悲哀を、当事者である張本氏に振り返っていただいた。 取材・構成=小林光男、新ヶ江周二郎
写真=BBM
「阪神・張本」間近だった 1975年オフ、張本勲は1959年のプロ入り時から在籍していた日本ハム(東映・日拓)からのトレードをフロントへ直訴していた。73年に日拓から日本ハムへ身売りされたファイターズは、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩が就任。監督は娘婿である中西太が務め、かつての「東映色」の一掃を図っていたからだ。水面下で繰り広げられていた「張本争奪戦」。ある日、阪神入団が目前に迫っていた張本の前に、監督1年目のシーズンに球団史上初の最下位という屈辱を味わった巨人・長嶋茂雄監督が現れたことで、運命は大きく変わっていった――。 私は日本ハムを出たいという気持ちはありませんでした。ただ、親会社も代わり、球団方針として新たなチーム作りをしたいと。東映時代から在籍したベテランを外に出して、「東映色」を一掃しようとしていたのです。私の場合は大社オーナーが反対していたのですが、どうも・・・
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