週刊ベースボールONLINE

球界202人が選んだ!最強打者ランキング

160メートル弾伝説!? こんな最強打者がいた!!

 

何をもって“最強打者”とするかはファンの数だけ、その理由づけの数もあるワケだが、ここではファンの記憶からは、ともすれば落とされがちになるが、プロ野球の強打者列伝からは絶対に外せない5人の打者をピックアップしてご紹介したい。オールドファンには、聞き慣れた名前だろうが、若い諸君のために、彼らのケタ外れの魅力と実力を紹介する。
文=大内隆雄、写真=BBM

160メートル弾伝説は景浦、中西のみ


 ひとつの伝説から書く。松山商から立大予科(当時の立大は予科3年、本科=学部3年の6年制)に入学した景浦将は1935年に3年生になっていた。予科1年に入学した33年、早くも神宮のマウンドに立ち4勝をマークして将来のエース候補と言われた。しかし、学年が進むにつれ神宮のファンはピッチングのことは忘れてしまった。とにかくそのバッティングが素晴らしかったのである。

 35年秋、景浦は2本の本塁打を放った。これがともに左中間深くたたき込んだもので130メートルは飛んだと言われた。しかし、立大の東長崎グラウンドに日参しているセントポール・ファンは「あんなもの大したことはない。練習では160メートル級を打ってるのだから」と言った。東長崎グラウンドの左翼後方には千川が流れていたが、ここまでが約160メートル。ここまで景浦の打球は届いたのだという。これは立大野球部の伝説となっており、後輩たちが、この伝説に挑んできた。しかし、長嶋茂雄(のち巨人)でも千川までは飛ばせなかったという。

 景浦は予科3年のみで36年、誕生したばかりのタイガース(阪神)に入団。その年12月の、いわゆる巨人との“洲崎決戦”第1戦で、巨人・沢村栄治からスタンド最上部で跳ねて場外に消える3ランを放ったのはあまりにも有名だ。140メートル級と言われた。この景浦の打棒については、あの中京商3連覇(31〜33年)の大エース・吉田正男の証言がある。吉田いわく、「彼には、どこに投げても打たれそうな気がした。いや、実際、打たれた」。吉田は景浦と甲子園で3試合対決したのだから、単なる印象ではない。まさに実感だったのだ。32年の夏の決勝では、中京商が4対3で勝ったのだが、景浦は吉田に三塁打を2本浴びせた。「いや何とも、ものすごい打球だったよ」(吉田)。

 戦前、中島治康(巨人)、岩本義行(南海)といったケタ外れのロングヒッターがいたが、飛距離が伝説となっているのは、景浦ひとりだ。戦前の最強打者と言っていいだろう。

 160メートル弾と言えば、西鉄の中西太だ。53年に平和台で放ったバックスクリーン越え(野球史家の大和球士によればその上9メートルを通過したそうな)の一打は飛距離162メートルとされる。中西は、「オレはライナーだから全力疾走中。見とらんから分からん」とトボけるが、この伝説の一打でも分かるように中西はセンターから右方向への大飛球を打てる打者で、この飛距離がものすごかった。だからこの年には、近鉄、大映1球団分よりも多い本塁打(36本)を打てたのだ。西鉄の僚友・豊田泰光によると、中西が、遠征の宿で素振りをするとガラス障子がビリビリと音を立てて震えたそうだ。こういう伝説は王貞治(巨人)にもない。

学生時代から驚がく弾連発の伝説を残す景浦


体に染みついた青田流HR打撃術


 景浦、中西のような飛距離伝説はないが、ホームランを打つテクニックにおいては、巨人、大洋などで5度の本塁打王に輝いた青田昇もプロ野球史上の最強打者の1人だ

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

特集記事

特集記事

著名選手から知る人ぞ知る選手まで多様なラインナップでお届けするインビューや対談、掘り下げ記事。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング