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強豪校伝説・「名門校」強さの秘密

龍谷大平安 甲子園70度出場の強豪がよみがえった理由

 

古豪復活よりも平安新時代へ

輝かしい栄光も過去のものになりつつあった時代から、見事に息を吹き返した。龍谷大平安はこの春、見事にセンバツ初優勝を成し遂げた。
甲子園出場70回を誇る「HEIAN」が強さを取り戻すことができた理由はどこにあるのだろうか。




「終わった」平安の再建

 1927(昭和2)年夏の甲子園初出場以来、32年春まで10季連続の出場。38、51、56年と夏は3度の全国制覇を果たし、初のセンバツ制覇となった今春の甲子園は実に春夏通算70回目の出場だった。しかし、甲子園が当然の時代が長く続いた歴史の中にも「平安は終わった」と囁かれた時期があった。70年代後半から京都商を筆頭にライバル校が台頭。一方で平安野球部には不祥事もあり部員が激減。練習中の張りつめた空気もプライドも失われていった……。

 立て直しは93年秋、原田英彦が指揮官として「HEIAN」のユニフォームを着たときから始まった。再建を託された当時の原田は日本新薬で現役を終え、社業に専念。仕事も面白くなってきた時期で家族もある。当然、考えに考えたが最後は「変わり果てた母校をなんとかしたい」という一心で復帰を決意した。

 ただ、チーム状況は想像以上で、当時11人いた1年生の中で普通にキャッチボールができた選手は2人だけ。改善すべき項目を挙げていくと61にも及んだ。そこからは、自らの平安への熱い思いを選手にぶつけながら、時には鹿も現れる亀岡のグラウンドでひたすら鍛錬の日々を重ねた。

「夏練のときにえらい怒られて朝から夕方までベースランニングっていう日もありました。昼飯も食べずひたすら6時間くらい走りっぱなし。白目むいて倒れていくヤツもいたし、強烈やったです」

 そう話したのは原田が初めて入学から見た代の主将・岩本達也だが、この種のエピソードは当時の各世代に残っている。網なしグラブを使っての左右50周、計100周ノーエラーのボール回しや、54連続ノーエラーをノルマとした実戦式のノック……。「基本と根性をつける練習」(岩本)で技術を磨いた。

 今でこそ平安と言えば、堅実な上に多様なフォーメーションやトリックプレーも仕掛ける守備や攻撃面でも磨き抜かれたバントや走塁が代名詞となっているが、決して根づいてきたカラーではなかった。そのことは京都で無敵を誇っていた時代を知るOBたちの声を拾っていくと分かる。「ワシらの時代は試合する以前、ユニフォームで勝っとった」「200、300人おった中から生き残ったメンバー。細かい指導なんかせんでも技術も根性も持っとったんや」

 原田も甲子園には届かなかった現役時代を振り返り「3年間で教えてもらったのは外野守備で打球の下に早く行け、ということと根性」と苦笑いで語った。当時の強豪校に通じる実は……な姿ではあるのだろう。基本徹底の上に頭脳的なプレーを加えた平安スタイルを確立していったのは、社会人野球の要素をふんだんに入れ込んだ原田の影響がやはり大きかった。

史上8校目の偉業へ

 原田は技術も心も“根”の部分を大切にしながら、一方で新しいものを取り入れることにも積極的だった。その最たるがトレーニングの充実だ。器具を使ってのパワーアップより、体のバランス、柔軟性を高めることからパワーやキレにつなげることを重視。早くから専門機関のトレーナーと連携し、徹底した体作りに取り組んだ。今ではアップに1時間半をかけるが、日々、体の状態を整えるところから技量の鍛錬に入る形が定着した。

 心の部分では選手に自立を求め続けてきた。私生活でも管理すべきところは管理しながら、本質の自立を求め「自分のことは自分でできる」人間作りを実践。野球にもつなげていった。今春、原田はチームの強さを問われ「選手がベンチを見なくなった。僕を探さなくなった」と言ったが、これなどまさに継続的な取り組みの成果だった。

▲「選手が僕を探さなくなった」。原田監督は、試合中の選手の姿に成長を感じていた



 原田のチーム改革はグラウンドの中だけではなかった。名門ゆえ、OBを中心に“外野席”との付き合いもチーム運営にかかわる課題だった。当然、OBの数も、実力者も多く、その存在が時にマイナスの方向へ向くことが過去には多々あった。そこで選手が野球に集中できる環境を作るため原田はOB会に欠かさず参加した。というのも歴代の監督は、批判を受けることを嫌がり、欠席を続けていたのだ。さらに関東と関西のOB会の関係改善にも尽力。ことあるごとに集まりに顔を出し、OBがそろって後輩たちを応援する空気、組織を作っていった。

 内外からチーム改革に取り組んでいく中、監督就任3年目の97年。川口知哉をエースとしたチームで春ベスト8、夏準優勝。以来、再び甲子園常連校となっていった。ただ、近年は09年、11年夏、13年センバツと初戦負け(11年、13年は2回戦進出)。原田も「最近は初戦負けの怖さを感じていた」と口にすることもあった。しかし、目先にこだわらず、すべきことを地道に積み上げた先に今春の大きな結果が待っていた。

 甲子園の5試合で55安打、4本塁打、18盗塁、43得点。この結果には2年前の10月に完成した新球場「平安ボールパーク」も大きな力になった。両翼100メートル、中堅120メートルで外野は全面人工芝。設備の充実はもとより、何よりありがたかったのは冬場にグラウンドが使えるようになったことだ。以前の亀岡グラウンドは12 月から2月いっぱいまで霜が降りるため、その間は校庭や室内、プールを使った練習しかできなかった。それが冬場も通常の練習ができるようになり、今回の打線爆発にもつながった。

 振り返り、春の初制覇にはさまざま理由が浮かんでくるが、あえて1つ挙げるなら、誰より平安野球部に強い思いを持った原田英彦が21年前にグラウンドへ戻ってきたこと。ここからすべては始まったのだ。

 さて、歓喜の春が終わり、狙うはもう一つの平安史上初。

 京都に戻ると原田は選手に向けてこう言った。

「ほかの学校は、必死になってウチを追いかけてくる。どうするんや? 追いかけてくるなら、追いつかれんところまで行ったらええんちゃんうんか?」

 この呼びかけにナインも「ヨッシャー」と気合の声で返し、夏へ向かうスタンスは決まった。真正面から夏の大旗を獲りにいく――。古豪復活より、平安新時代。そんな予感を漂わせながら史上8校目の偉業へ挑む。

【甲子園通算成績/通算96勝66敗】
◆春38回出場(通算37勝37敗)
[優勝]1回(2014)
[準優勝]0回
[ベスト4]4回(1930、36、61、74)
[ベスト8]12回(1937、39、40、52、55、64、66、68、97、99、2003、08)
◆夏32回出場(通算59勝29敗)
[優勝]3回(1938、51、56)
[準優勝]4回(1928、33、36、97)
[ベスト4]1回(1930)
[ベスト8](9回(1927、29、58、59、64、66、69、74、2001)

【過去5年選手権京都大会成績】
※右は敗退対戦校(優勝の場合は決勝対戦校)
2013 ベスト8 京都翔英
2012 優勝 京都両洋
2011 優勝 立命館宇治
2010 ベスト4 京都翔英
2009 優勝 福知山成美

【2014年春季京都大会成績】
1回戦 ○ 6-4 日星
準々決勝 ○14-2 塔南
準決勝 ○ 8-1 鳥羽
決勝 ○ 6-5 立命館宇治

【2014年春季近畿大会成績】
1回戦 ○ 3-1 智弁和歌山
準決勝 ● 3-6 報徳学園
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