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2014夏の甲子園大特集

ベテランライターが綴る「わが心に残る忘れじの高校球児」

 

92年夏の甲子園で優勝投手に輝いた西日本短大付・森尾。5試合に投げて4完封と素晴らしい投球だった


夏の甲子園に心を奪われている高校野球ファンには、誰しもまぶたに焼き付いて離れない高校球児がいるものだろう。灼熱の夏を彩った、少年たち一生懸命なプレー。もちろん彼らと間近で接する取材者にも、強烈にインパクトを受けた高校球児がいる。30年に及ぶの夏の甲子園取材歴をベテランライターがつづる、忘れじの高校球児――。
文=楊順行 写真=BBM

歴史的快挙もあり得た92年夏の優勝投手


 1992年夏の甲子園といえば、松井秀喜(当時星稜)の5敬遠がすぐに頭に浮かぶ。あるいは直前のバルセロナ五輪では、14歳の岩崎恭子の金メダルに列島がわいた。では、夏の優勝投手は? となると、意外と答えられないのではないか。答えは、西日本短大付の森尾和貴。しかも5試合中4試合が完封で、あと1試合も1失点、45回を投げて防御率0.20という、完璧な投球だった。

 直球とスライダーのキレはもちろん、大きな武器だったのは比類のない制球力。45回でわずか4四死球だから、スクイズの予想されるピンチにも、バントがフライになりやすい内角高めに正確に投げ込むことが可能だった。のちに森尾は、こんなふうに語ってくれたことがある。

「あれだけ完封できたのは、守備に助けられたから。監督の浜崎(義重)さんは、相手を綿密に分析する人で、ミーティングでは選手を指名し、相手打者の打球方向や弱点などを答えさせるんです。守備陣はそれを頭に入れ、試合では的確なポジショニングをしましたから、ヒット性の当たりを何本もアウトにしてくれた」

 惜しむらくは北陸との準々決勝、9回に許した1点で森範秀二塁手のグラブをすり抜けた打球がタイムリーになった。当時森は、「あのヒットはチーム内ではエラー」と語っており、確かに森尾も「バックハンド側の打球なのに、森は正面に入ろうとした分、追いつかなかった」と鮮明に記憶していた。

 となるともし、その打球が適切に処理されていたら……金属バット導入後では初めての、全試合完封での優勝という歴史的快挙もあり得た。

 ちなみにこの年から日本高野連は、選手の健康管理のために投手複数制を打ち出していた。事実、準優勝の拓大紅陵高は、3人の先発投手を使い分けている。対して森尾は、3回戦から4連投という鉄腕ぶり。平成4年は、まだ昭和の香りが残っていたのだ。

甲子園史に名を残した「クソ度胸」のある1年生


 森尾は2003年まで社会人・新日鐵八幡でプレーしたが、当時の西短のキャプテンで現在、日本文理大を率いる中村壽博によると「同期のうち、一番早く家を建てた」のが森尾らしい。で、思い出したのが杉谷拳士だ。

 その名はプロボクサーだった父にちなみ、「父の夢のために、プロに入ってボクシングジムを建ててやりたい」と早くから公言していたように09年、日本ハムに入団している。

 帝京では異例の、1年からショートのレギュラー。06年夏の甲子園では3割超の打率と4打点を記録し、ベスト8入りに貢献した。それはともかく、よくしゃべる。ナミの1年生なら、試合後の取材などは片隅で殊勝にしているものだが、杉谷は大違いだ。一端つかまると、まくしたてる彼一人で規定の取材時間が終わってしまうほど。まあその明るいキャラクターは、プロでも愛されているようだが……。

 実はその杉谷、甲子園ではマウンドにも立っている。06年夏、智弁和歌山との準々決勝はまれに見る大活劇だ。

 4点差を追う帝京は9回表、打者11人で8点を挙げ、大逆転に成功。二死から逆転打を放ったのが杉谷だが、4点リードした帝京にはその裏、代打を使った関係で投手がいない。昨年までの経験者では智弁の強力打線をごまかせるわけもなく、スリーランを浴びて1点差となり、なおも一死一塁、マウンドに立ったのが「クソ度胸のある」(帝京・前田三夫監督)杉谷だった。

 だが……さすがに、1年生だ。練習試合では登板経験があっても、責任重大な大舞台に腕が縮み、初球を相手打者にぶつけてしまう。即交代。結局帝京はこの回、5点を奪われて敗退するのだが、逆転の走者を出した杉谷は、「史上最大得点差のサヨナラ試合」に、たった1球の負け投手として名前を残すことになった。

白球からカメラへ準優勝投手の現在


 そういえば清原和博(元西武ほか)にも、PL学園時代、甲子園のマウンドに立った経験がある。そのうちの1試合が、29対7と記録的大勝をした東海大山形戦だ。

 その85年夏。のちにプロ入りする、2人の1年生投手が投げ合った。沖縄水産・上原晃(元中日)と、函館有斗(現函館大有斗)・盛田幸妃(元横浜ほか)である。沖縄の勝ったこの試合は、どちらも責任投手にはならなかったが、両校はなんと、2年後の87年夏も初戦で激突。このときも沖縄が勝っており上原は2失点、盛田は3失点で完投している。のちにプロ入りする投手の甲子園での投げ合いは珍しくもないが、1年と3年の2回、それも初戦で……となると、かなり希有な例じゃないか。

沖縄水産・上原晃(写真)と函館有斗・盛田幸妃は1年と3年の2回、夏の甲子園で投げ合った



 松井を5敬遠してから10年後に優勝した明徳義塾にも、希有な記録がある。7対6と打ち勝った3回戦の常総学院戦、明徳の残塁は0なのだ。打線が不活発なら分かるが、9安打7得点で残塁が0というのは確率的に極めて低い。走塁死と盗塁死が3あったためで、決着をつけたのは森岡良介(現ヤクルト)のバットだった。2点を追う8回、二死から相手エラー、後続の2ランで追いつくと、続く森岡がライトへ、特大の2者連続ホームランだ。明徳、逆転。

 実はこの大会の森岡、そこまで絶不調で、ゲン直しのためか、それまでの黒の革手袋を白に代えていた。試合のあとそのことを指摘すると「ニカッ」と笑いながら、「昨日そうとう振り込んだので、黒は破れてしまったんです」。

当時、このエピソードに気づいた人はさほど多くないはず、とひそかに自負している。そしてこの試合で覚醒した森岡は、白手袋に代えてから4試合で16打数8安打2ホーマー。3年間、4回出場した甲子園13試合すべてでヒットを放っている。つまり、13試合連続安打。あのKKにしても、桑田真澄(元巨人ほか)の9試合連続が最長だから、これも希有な記録ではないか。

 最後に――天理が優勝した86年の夏、決勝の相手は松山商だった。水口栄二(元近鉄ほか)らがいた打線は活発で、準決勝の浦和学院戦の6回には、1イニング連続安打「11」など記録ずくめの猛攻を見せて大勝していた。そして決勝も、3回終了時点で1対0。

 だが、4回。6試合目の登板となるエースは限界が近かった。一死一、三塁のピンチで投じた宝刀・スライダーがワンバウンドして同点。動揺した次の球も同じような暴投で四球。またも一、三塁から逆転打を浴び、そのまま力尽きた。

 敗れはしたもののそのエースは、高校選抜のメンバーに選ばれ、韓国遠征に僕も帯同取材した。言葉を交わすようになるなかで、ある日、僕のカメラを手にとって言ったものだ。写真に興味がある。カメラマンになりたいんですよねぇ……。

 そのエースはいま、某出版社のカメラマンとして写真を撮っている。ときには酒席で「決勝で2球連続暴投とはねぇ」とからかうのだが、野球を撮らせたらその腕は天下一品だ。86年夏の準優勝投手・藤岡雅樹。社会人野球の雑誌『グランドスラム』などで、その美しい作品を見ることができる。

86年夏の準優勝投手の松山商・藤岡雅樹。高校時代からカメラに興味があった

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