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文=小林光男(本誌編集長)

 

 黄金時代を築いた巨人西武。両者の強さの秘密について、それぞれのチームで主力としてユニフォームを着ていた柴田勲石毛宏典に話を聞いたことがある。

 両チームは当然、ラインアップに名を連ねた選手個々の能力の高さが圧倒的な強さの礎となったのは間違いない。しかし、質問を重ねていくと、自然と両者から共通のキーワードが浮かび上がってきた。それは、“自己犠牲の精神”だった。

日本一へのおぜん立ての犠打を決めた石毛。日本シリーズMVPにも輝いた



 1965年から73年まで空前絶後の9連覇を果たした巨人で主に一番打者として活躍した柴田。もともと法政二高で夏春連覇の快挙を成し遂げたエース右腕だったが、巨人に入団した1年目(62年)に投手失格の烙印を押され翌年から外野手に転向した。同時にスイッチヒッターにも挑戦。血のにじむような努力を重ねたが、そのときに川上哲治監督から口酸っぱく言われたのは「四球をヒットだと思え」ということだったという。

「四球を選んで、盗塁を決めれば二塁打と見なされますから。勝利のために、私はどんな形でも塁に出ることを課せられたわけです」

 柴田は20年の現役生活で通算1087三振を喫しているが、ホームラン打者ではないヒットメーカーとして鳴らした柴田にしては数が多いかもしれない。しかし、それも致し方ないこと。フォア・ザ・チームを貫いた結果だからだ。

「私はカウントがボール3になったら、際どい球は絶対に振ることはありませんでした。フルカウントになったとき、それを審判がストライクと言えば終わり。だから、四球も多いですが、自然と三振も増えてしまったんですよ」

 82年、広岡達朗監督の下、創立4年目で初の頂点に立ち、86年からは森祇晶監督に率いられ、94年までの13年間で11度のリーグ優勝、8度の日本一に輝いた西武。石毛いわく、まず広岡監督から“自己犠牲の精神”を徹底的にたたき込まれたという。

「マインドコントロールじゃないですけど(笑)、ミーティングで。でも、それを実践したら、広岡監督1年目に日本一。結果が出て、チームにかかわるすべての人が幸せになりましたから。だから、自然と“自己犠牲の精神”が伝統となったんですよね」

 指揮官が森監督に代わっても、あらためて徹底する必要はなく、自然とチームの誰もがそれを実践する状態となっていた。

 例えば石毛の頭に残っているのは88年、中日との日本シリーズ。3勝1敗と西武が王手をかけて迎えた第5戦(西武球場)のことだ。点の取り合いとなり5対6と西武が1点ビハインドの9回裏、石毛が郭源治から値千金の同点ソロをバックスクリーンへ打ち込んだ。

 同点のまま11回裏に入り、先頭の四番・清原和博が中前打で出塁、再び石毛に打席が回ってきた。マウンド上では、まだ郭が投げ続けていた。この場面、前の打席で本塁打を放っている石毛に森監督が出したサインは送りバント。しかし、当然、石毛にはまったく違和感はなかった。

「いくら結果を残していても、いくら五番であろうとも、こういった状況で送りバントの作戦を取るのが森野球なんですよ」

 石毛が清原を送った後、立花義家は三振に倒れたが、続く伊東勤がライトオーバーのサヨナラ打。森西武は3連覇を果たした。

 選手個々の能力が優れているだけでは最強チームたり得ない。それにプラスして、“自己犠牲の精神”が絶対条件の一つであるのは間違いないだろう。 (文中敬称略)
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