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虎フィーバーとは何だったのか…1985年の日本を振り返る

 

なぜ、あれほどの“トラフィーバー”が巻き起こったのか。なぜ阪神であって巨人でも西武でも広島でもなかったのか。85年阪神の優勝は、日本人にとって特別なものだった。
文=大内隆雄



 初めに1985年に関係のないことから書く。もう、ほとんど忘れられた人だが、戦前、文学者たちの間ににらみをきかせた三田村鳶魚という随筆家、考証家がいた。『大衆小説評判記』などで、時代小説をメッタ斬りにして、歴史小説家たちに恐れられた。時代考証に誤りがあるとトコトン追及され、グウのネも出ないほどにやっつけられる。あの島崎藤村でさえ閉口頓首だった。

 戦前最後の講談社の編集局長だった萱原宏一さんから面白い話を聞いたことがある。

「君、鳶魚ジイさんは、書いたものより、人間そのものの方が、もっとひどかったんだよ。初めて原稿を頼みに行ったとき、ささ、どうぞ、と座布団をすすめられた。僕はすすめられるままにそれに座ったのだが、ジイさん、『ホホウ、最近の若い人は、すぐ座布団に座るんだねえ。いやはや、あきれたものだ』とのたもうた。僕は何というヤツだと思ったね。こんな悪人には初めて会ったよ」

 萱原さんは、あの菊池寛の相談役を務めた時期があり、第1回の直木賞(1935年)を選ぶ際、「誰がいいか?」の菊池のご下問に「川口松太郎しかおらんじゃないですか」。このひと声で川口は直木賞に決まった。萱原さんは、芥川賞を受賞する前の松本清張の才能を愛し、東京に出てくればアレコレ世話を焼いた。三田村も、こんな人を前にして、とんだミステークをやったものである。

「僕は、ムシャクシャするから、すぐ神宮に行った。ここで大学野球を見たら、それまでのことなんかいっぺんに忘れてしまったんだよ。野球に救われたようなものだ。日本人にとって野球は特別なものだね」と萱原さんは言った。

日航機事故のとき、阪神は“死のロード”中ながら7度目の首位。希望の対象に


 ここから1985年の話になる。この年の阪神の優勝も、日本人にとっては、特別なもので、救われたのは阪神ファンだけではなかったのではないだろうか。

 あの日航機事故(8月12日)、で520人の乗客、乗務員が犠牲になった。この中には、中埜肇阪神球団社長が含まれていた。当時の吉田義男監督は「これは何が何でも優勝して、社長の霊前に報告しなくては、と心に誓った。選手たちも同じ気持ちだったと思う」と語る。

10月21日、中埜社長の遺影に優勝の報告をする吉田監督[左]と岡田選手会会長



 この年は、1月から暗いニュースばかりだった・・・

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