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虎日本一のクローザー・中西清起氏に聞く85年投手陣

 

1985年の阪神タイガースは、とにかく爆発的な破壊力を見せつけた猛虎打線ばかりに目が奪われる。しかし、中継ぎ・抑えが安定していたことで、負けゲームも勝ちにつなげたことも多い。その85年、プロ入り2年目でクローザーとなり、阪神の優勝を支えたのが中西清起現一軍投手コーチだ。ここまであまり話題にならなかった投手陣に当時どのような結束力があったのか、語ってもらった。
取材・構成=椎屋博幸、写真=前島進、BBM



 85年、2年目でクローザーを務めた中西清起は63試合登板で11勝3敗19セーブを挙げた。ダブルストッパーの山本和行が5勝6敗11セーブ。左腕の福間納が8勝5敗1セーブ。工藤一彦が6勝3敗。この4人で30勝を挙げ59のセーブポイントを挙げた。それだけ中継ぎ・抑え陣が踏ん張った優勝でもあった。

勝ちながら決まった役割


 あの1985年のリーグ優勝、日本一は「エースなき優勝」などと言われていましたね。先発投手は5回まで投げ切ってくれればいい、という雰囲気がありましたからね。福間(納)さん、工藤(一彦)さん、僕、山本(和行)さんの4人で回していましたしね、中継ぎ陣は。シーズンが始まる前は、こういう形になるとは思っていませんでした。シーズンが進むにつれ、自然とこの4人の中継ぎ陣で試合の後半を投げていく、という形になっていきましたよ。

中継ぎで貴重な役割を果たした福間



 とにかくこの年は打線が良かった。4、5点差などで負けていて中継ぎ陣がマウンドに上がって1イニングを抑えると、その次のイニングで一気にひっくり返すという試合も経験しましたし(笑)。

 この4人が投げる順番というのは、実はそこまでしっかりとは決まっていませんでした。決まってはいませんでしたが、当時は一人で2、3イニングを投げることが当たり前。時には1人で4イニングを投げたときもありましたから。僕は6〜9回まで投げた経験もありますよ(笑)。シーズン終盤はクローザーとして投げていましたけど、それまではどの場面で投げるのか分からないこともありました。だから、いつでも行ける準備はしていました。まあ、意識的には7、8、9回に抑えが行くというパターンは出来上がってはいましたけどね。

 山本さんが9月にアキレス腱を断裂してからは、僕が一人で抑え役。でも、もうこの時期は・・・

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