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特集・80's〜90's 助っ人黄金時代

三冠王ブーマー語る「日本では良い思い出ばかりだ」

 

阪急移籍2年目で三冠王、MVPなどタイトルを総ナメにし、阪急の優勝に貢献した。10年間で通算打率3割以上と安定した成績を残し、ゴールデングラブ賞を2度獲得。すぐに日本に順応して安定した成績を残した秘密は何だったのか。
取材・翻訳=池田晋、写真=BBM


笑顔でリラックスして野球を楽しむことが大事


 ブーマーと呼ばれるようになったのは、プロ1年目のことだった。強烈な打球を放ったことに驚いたアナウンサーが「ブーム・オフ・ザ・バット」と表現したんだ。そして次の打席のときには、登録名のグレッグ・ウェルズではなく、ブーマー・ウェルズとアナウンスされた。それがこの名前の始まりさ。

 阪急での1年目はあまり良い成績ではなかった。冬にヒザの手術を受けたばかりで本調子とはほど遠い状態だった。でも、周りには「よく打った」と褒められるから、戸惑ったよ。慣れるための期間と割り切ってプレーしたんだ。最初の1年で上田利治監督のやり方にも完ぺきに慣れることができた。すべては通訳のバルボンさんのおかげだね。彼の助けがあって、すんなり日本での生活、プレーに慣れることができた。今では家族のような付き合いで、日本に来るときは必ず会うようにしているよ。

 バルボンさんに言われたことで、一番難しかったのは、コーチに言われたことに対して「なぜ?」と聞き返すのをやめることだった。僕はいつでも野球を学ぶ生徒なんだ。どんなときも学ぶ姿勢を忘れない。だから、コーチに指示を受けたり、ある練習メニューをするように言われたときは、必ず「なぜ?」と聞くようにしていた。でも、日本のコーチはこれを嫌がる。黙って言われたとおりにすることが、彼らには良かったようなんだ。でも、僕は何のためにするのか、頭で納得しないとやりたくない。「なぜ?」と聞き返すクセを直すことが、日本に来て一番大変なことだったかもしれないよ。でも、この考え方は間違ってないだろう?

 最初、「野球は楽しむものだよ」とある選手に言ったら「上田監督は厳しいから怒られるよ」と言われたんだ。でも、実際はそんなタイプではなかった。上田さんはいつも笑顔でリラックスしてプレーすることを許してくれた。理解のある監督だった。いつも冗談を言ってチームメートを笑わせたよ。みんなもリラックスしてプレーすることで、本来持っている力を存分に発揮できた。雰囲気を良くする意味でもチームに貢献できたと思う。上田さんは、日本で長く成功するための秘訣も教えてくれた。そのおかげで10年もプレーできたんだからね。

 2年目にコンディションが整ったから、活躍する自信はあったんだ。ピッチャーの攻め方も変わったけど、その変化にも対応することができた。しかし、2カ月のキャンプは長すぎるね。それでも順調に打って、トリプルクラウン(三冠王)を獲得できた。

 日本で成功するには、自分が日本にいることを忘れないことだ。つまり、日本のスタイルに柔軟に対応しないといけない。「アメリカではこうだから……」という考えは捨てなければいけないよ。

 打撃三部門で一番こだわっていたのは打率だ。打率がチームに最も貢献できる部分だからね。自分自身のことはスラッガーというよりは、オールラウンドプレーヤーだと認識していた。守備もできるし、走塁も悪くない。日本で毎年盗塁を成功させたほどだ。その上で高いアベレージを残し、ホームランも打てる。自分で言うのも何だが、完璧な選手だったと思っている。


死球に怒って予告本塁打でお返し


 ほかのチームにいた外国人選手とは、年に3、4回集まっていたよ。場所は六本木のニックス・ピザ。今もあるのかな? 日本で長くプレーした選手たちと仲が良かったよ。クロマティ(巨人)、バース(阪神)、ブライアント(近鉄)、デストラーデ(西武)、ウインタース(日本ハム)。

 オリックス時代もいろいろ思い出があるよ。まず、ユニフォームが気に入ったね。阪急のよりもオリックスのブルーの方が好きだったんだ。似合っていただろ?

 オリックス時代に予告ホームランを打ったこともあったね。あれは近鉄戦で、山田(久志)さんのようなサブマリンの投手だった。名前は忘れてしまったよ。ブライアントに聞いてくれれば覚えているはずさ。

 球審が「ブーマー、ダメ、ダメ!」と言ったけど、構わずやったよ。相手の投手が内角をやけに厳しく攻めてきて、僕ももう一人の外国人もデッドボールを当てられた。だから、怒っていたんだよ。その仕返しに、次の打席でバットをレフトスタンドの方向に指して、予告ホームランをやったんだよ。スカッとしたね。

 ダイエーには最後の1年しかいなかったけど、ここでも思い出はあるよ。まず、門田(博光)さんと再びチームメートになれたことがうれしかった。オリックスでも一緒にプレーしたからね。元西武の田淵(幸一)さんが監督で、佐々木誠という最高のリーダーもいて、彼は僕と一緒にプレーした92年は素晴らしい成績を残したんじゃないかな(首位打者と盗塁王を獲得)。田淵監督1年目に6位、2年目に5位だったチームを4位に押し上げることができたのは大きな成果だった。

 個人的には、それまで残していた成績に比べ、満足できるものではなかった。その年限りで引退となってしまったからね。それでも、打点王にはなった。奇妙な話だよね?

 打点王になったのにクビさ。今ならタイトルを獲ったことで、確実に給料が上がるはずだ。でも、当時は評価されなかったんだ。

 最後に言わせてほしいことがある。一つだけ残念なことがあったんだ。日本で10年間プレーして、外国人として初の三冠王とMVPに輝き、日本での通算成績も素晴らしい数字を残したと思っている。それなのに、野球殿堂には選ばれなかった。自分に選ばれる資格がなくなったときは、落ち込んだよ(12年の投票では必要数の236に13票足りず、落選となり、物議を醸した)。

 それでも、僕は日本でファンに愛され、幸せな時間を過ごした。阪急電車に乗って西宮球場へ行くときに、ファンにサインを求められたら一度も断らずに応じたんだ。嫌だと思ったこともないし、喜んでサインをしたよ。このように、日本では良い思い出ばかりだ。また日本のみんなに会えるのを楽しみにしているよ。


PROFILE

娘のミカさんと


ブーマー・ウェルズ●1954年4月25日生まれ。アメリカ・アラバマ州出身。12歳で大人の草野球チームでプレー。高校時代は野球以外にアメフト、バスケットボールをプレー。183センチ、80キロで二塁や外野を守っていた。オールバニ州大でも3つのスポーツを続け、卒業後はアメフトのニューヨーク・ジェッツと契約。だが、体重とパワー不足ですぐに自由契約となり、76年にパイレーツと契約。ブルージェイズ、ツインズを経て83年に阪急入団。2年目の84年に三冠王を獲得。オリックス1年目の89年には打率と打点の2冠。92年にダイエーへ移籍し、打点王獲得も戦力外となり、引退した。最多安打4回、MVP1回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞2回など多くのタイトルを獲得した。

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