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2016ドラフト特集 第1弾
高校時代の恩師が語る怪物・田中正義誕生秘話

 

投手として本格デビューを飾る大学2年春まで、全国的に無名の存在だった田中正義。2年余りで「アマNo.1」「ドラフト1位確実」と言われるまでになった背景には一体、何があったのか。高校の恩師に至極のエピソードを披露してもらった。

創価高元監督・近藤省三「仮に投手を続けていれば、今の田中正義は存在しなかった」


田中は創価高時代、卒業後に東京六大学への進学を志望していたが、さまざまな縁があって創価大へ進学。野球部、そして物理的な環境もマッチしたと、近藤元監督は分析する



 初めて見た田中の投球は1年夏の準々決勝(対早実)です。四球からピンチを作り、タイムリーを浴びる自滅の展開(3回途中降板、チームは3対15の7回コールド敗退)。神宮のスタンドからでしたが、おそらく背番号1の本人も、打たれたイメージはなかったはずです。私はこの夏以降の新チームから監督に復帰。すでに140キロ中盤の真っすぐを投げ、指先にかかったときには周囲も「おっ!!」という球筋でしたが冒頭の通り、コントロールが安定しない。さらに入学以来の蓄積疲労で、右肩痛も訴えていました。50メートル、100メートル、長距離を走らせてもチームNo.1。ただ、下半身がまだ弱く、投球フォームのバランスが悪い。手足が長いポテンシャルの高さを、ピッチングに生かし切れていませんでした。誤解してほしくないのは、そういうレベルの投手であったというわけではなく、そういう段階だったのです。

 田中しかいなければ無理にでも(エースとして)作っていたでしょうが、1学年上に小松貴志、同級生には池田隆英(創価大3年)の右腕2人がおり、その必要はありませんでした。甲子園に出場する戦力を整えるのが私の仕事。冷静に分析して、田中をセンターへ回しました。本人は投手としてのこだわりが強く、本望ではなかったでしょう。ただ、仮に投手を続けていれば・・・

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