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2016ドラフト特集 第1弾
創価大監督が語る田中正義・「背番号15」の重み

 

投手として本格デビューを飾る大学2年春まで、全国的に無名の存在だった田中正義。2年余りで「アマNo.1」「ドラフト1位確実」と言われるまでになった背景には一体、何があったのか。大学の恩師に至極のエピソードを披露してもらった。

創価大監督・岸雅司「意識の高い正義について行こうと、チーム全体が押し上げられている」


 光球寮で寝食をともにしており、部員と話をするときは、じっくりと時間を取るようにしています。私の部屋へ来ると、女房がお茶とお菓子を出すのですが、田中正義だけは一向に手をつけようとしない。聞けば加工食品を食べたことがない、と。合宿所の食事が出ない練習休日。ほとんどの部員は出前を注文したり、コンビニでおにぎりやサンドイッチを購入するのですが、田中の部屋には、お母さん御手製の食材が冷凍されているそうなんです。以来、正義と2人でヒザを突き合わせるときには、柿やキュウイら果物を出すようにしています(苦笑)。ここまで体と向き合う選手は初めて。今の正義の姿は、実はなるべくしてなったのでは……。ご両親から受けた教育の賜物。大学というこのタイミングで素材が開花したのであって、私が育てたという気持ちは毛頭ありません。指導者とは全力でサポート、協力するだけ。創価大には人が育つ土壌があり、そこに、正義の絶え間ない努力が合致したのだと思います。

3年時は春にリーグ優勝を逃すと、秋は明治神宮大会の関東代表決定戦準決勝[対上武大]で敗退し、全国舞台を逃した(田中は0対3の5回途中から救援)。敗退した夜、田中から予期せぬ“志願”が待っていた



 正義は大学デビューした2年春から3年春までは背番号「11」を着けていましたが、昨秋に「15」を与えました。これには理由があります。24年前(92年)、鳥居輝之という投手が在籍していましたが、大学4年を迎える2月10日に突然亡くなった。リーグ戦で1試合も投げることなく……。ご両親の説明によると以前から内臓が弱く、いつ“その時”が来てもおかしくない状況だったそうです。しかし、それは我々には伏せられたまま。息を引き取ってから事実が明らかとなりました。人一倍、努力する模範的な部員で、あの朝は一生忘れられない。以来、鳥居が着けていた「15」は“欠番”としてきました。あの悲しみを乗り越え、ウチの野球部があります。昨春、4年連続での大学選手権出場を逃した後、浜松のお墓へ行き、お母さんに「15を着けるのに相応しい投手がいる」と正義のことを説明すると、泣いて喜んで承諾していただいた。「15」がエース番号。正義は野球部の歴史的背景を含め、すべてを背負えるだけの器を持った人間なのです。東京新大学野球連盟は、主将の背番号が固定ではありませんので、今春から2シーズンも「15」で投げます。

 昨年11月5日。神宮大会出場を逃した夜、私の部屋の内線が鳴りました。受話器の向こうにいたのは正義。「進路のことかな?」と思ったのですが、内容はまるで違った。ウチで投手で主将は2人目。ただ、志願してきたのは正義が初めてです。翌日の投票を受けて、主将就任が決まると、ミーティングでこう言いました。「一本の矢は折れるかもしれないが、三本の矢は……という故事がある。我々も監督とコーチ2人が団結しているから折れない。副主将2人がサポートし、3人主将の気持ちでやってもらう」。この言葉で正義も幾分、楽になったかもしれません。就任から約2カ月が経過しましたが、意識の高い正義のレベルについて行こうと、チーム全体が押し上げられているムードです。上(初の大学日本一)を狙っていく上でも、正義一人では勝ち上がれず、投手陣の底上げは必要不可欠。ウチは普通の選手の集まり。正義を含めて、高校時代は無名だった選手が4年間、たたき上げで強くなる伝統があります。昨秋の関東代表決定戦以降、この2カ月でボールの質も明らかに変わってきているので、春が楽しみです。

PROFILE

きし・まさし●1955年7月24日生まれ。山口県出身。久賀高から本田技研へ入社。内野手として10年プレーし都市対抗6回出場。84年に創価大監督に就任し、東京新大学リーグで優勝42回。全日本大学選手権、明治神宮大会では計9回の準決勝進出と全国屈指の強豪校へと育てる。小谷野栄一(現オリックス)、八木智哉(現中日)、小川泰弘(現ヤクルト)ら、多くのプロ野球選手も輩出。リーグ戦通算611勝101敗7分、勝率.858。
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