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特集・春季キャンプ徹底攻略!
話題を独占!キャンプで起きた“フィーバー”を振り返る

 

話題が話題を呼び、人が人を呼ぶ。熱狂につつまれたキャンプがあり、そこにはいつもスターが存在した。長嶋茂雄・一茂父子、松井秀喜イチロー松坂大輔……。国民的スターが話題を振りまいたキャンプを回顧する。

1999年 西武・松坂の快進撃、開演前夜。それでも高知には連日1万人!


99年の西武キャンプでは松坂が練習場所を移動するたびに観衆の大移動が起きた



 1999年2月。薄暗い早朝から高知市内の西武宿舎に押し寄せるファンが、日に日に多くなった。ホテルのそばを流れる鏡川までの約100メートルの道に、松坂大輔の散歩を待つ人があふれた。

 キャンプ地となった県営春野球場の狂騒は、すさまじかった。球場からブルペンへ向かう階段を下ることさえままならない。観衆は連日、1万人を超えた。人波を分散させるべく、先輩投手の谷中真二(背番号15)が、松坂の「18」のグラウンドジャケットを着て、ブルペン脇の小屋から駆け出し「影武者」を演じた。

 喧噪の中、松坂はマイペース。通常メニューの後、バッティング、ノック、ランニングと毎日最後の一人になるまで居残った。先輩投手たちは「少年!」と声を掛け、「野球小僧」のニックネームをつけた。

 東尾修監督は、慎重かつ計画的にルーキーを育てた。キャンプインから2日間はブルペン入りを許さず、その後もしばらく宝刀・スライダーの練習を禁じた。直球とカーブだけで、じっくりとフォーム固めを優先。途中、発熱で紅白戦登板が見送られるなど曲折もあったが、2月28日の阪神とのオープン戦では2回1失点でデビュー登板をまとめた。

 卒業式のため、松坂が高知を離れた翌3月1日は休日。東尾監督は球場に近い高知競馬場で羽を伸ばし、「疲れたよ」と1カ月間の気苦労を振り返った。野球小僧の「自信が確信に変わる」のは、もう少し先。4月7日の「155キロの衝撃デビュー戦勝利」から、さらなる社会現象を巻き起こし、この年16勝を挙げて最多勝と新人王に輝く。

1993年 長嶋父子、ルーキー・松井。球界の使命を担ったGキャンプ


ミスターが走れば、マスコミもファンも走る……



 1993年の巨人・宮崎キャンプは長嶋茂雄監督の13年ぶりの復帰、長男・一茂のトレードによる加入、新人・松井秀喜の入団で大変な注目を集めた。テレビや新聞の報道は、この上なく加熱。各社とも人員を大幅に増加し、キャンプ初日に駆けつけた記者の数は250人にもなった。

 長嶋監督らの一挙手一投足が大きな記事になった。キャンプ当初の最大の注目は、長嶋監督がいつ、どのタイミングでウインドブレーカーを脱いでユニフォームの背番号「33」を見せるか、であった。記者、カメラマンがこぞって長嶋監督に密着し、監督の動きを徹底マークした。初めて「33」を見せたときは、もちろん各スポーツ紙の一面を飾った。

 松井が初日からフリー打撃でサク越えを連発するなど盛り上がり、キャンプ地は連日、大勢の人でにぎわった。当時の巨人キャンプは宮崎総合運動公園内にある宮崎市営球場で行われていた。球場の収容人員は1万5000人だったが、週末には同運動公園に5万人ものファンが訪れた。公園内の駐車場には九州各県のナンバープレートばかりでなく、本州からの車も見かけられた。

 この年の5月に、サッカーのJリーグが始まることになっていた。サッカー人気が沸騰し、野球人気の低下が叫ばれていたときだった。それだけに、このときの巨人は、人々の関心を野球に引き戻す使命を担う存在であった。長嶋父子と松井が、このキャンプでプロ野球界に活気を与えたのだった。(文=樋口浩一)

2009年 大渋滞を巻き起こしたWBCイチローフィーバー



球場に入るために、駐車場から続く長蛇の列が熱狂ぶりを物語る



 2009年、第2回WBCを戦う侍ジャパンのメンバー33人が集結し、キャンプが行われた初日、2月16日は月曜日だった。10時の練習スタートに合わせ、サンマリンスタジアム宮崎に向かった朝7時30分ごろ。車の中で地元FMラジオから聞こえてきた情報に耳を疑った。

「侍ジャパンと、宮崎初上陸となるイチロー選手を見るために、朝5時から開門を待っているファンがいるそうです」

 平日ということもあり、観衆もまばらだと想像していたのだが、宮崎市内からキャンプ地を結ぶバイパスから見えてきた球場の人だかりに驚かされた。実際にグラウンドに入ると、客席は立りっ錐すいの余地もないほどの満員。収容人数3万人の球場に、立ち見も合わせて約4万人のファンが侍ジャパンの到着を待っていた。

 ちなみに初日、何も知らない侍ジャパンのメンバーたちは予定どおりにホテルからバスに乗ったが、侍ジャパン合宿渋滞に巻き込まれ、20分以上遅れての到着。某コーチは「まさか宮崎で渋滞になるとは。すごいファンだねえ」と驚いていた。

 この日以降、毎朝、宮崎市内のバイパス入口から球場まで約10キロの大渋滞。球場に入るための内野入場口に長蛇の列ができるなど、1週間、まさに侍フィーバーが吹き荒れた。(文=椎屋博幸 当時週刊ベースボールWBC担当)
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