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グラウンドのコンダクター セカンド新時代

懐古趣味ではない最強の二塁手 飛燕の守備を誇った苅田久徳

 

アマチュア時代は名ショートとして一世を風靡した苅田


 若い読者の皆さんは、苅田久徳(かりた・ひさのり)という名を聞いたことがあるだろうか。プロ野球草創期の伝説的プレーヤーで、ラストシーズンは41歳、1951年の近鉄パールスだった。「苅田の前に苅田なく苅田の後に苅田なし」と称えられ、36年秋に盗塁王、38年春には兼任監督としてMVPにも輝いている。

 38年、巨人に入団し、セカンドのベストナイン7回(当時はゴールデン・グラブのような守備を対象にした表彰はなかった)、史上屈指の名セカンドとも言われる千葉茂が「目標として励んだが、どうしても及ばないものを感じた」と絶賛した男だ。

 この男を「日本球界で二塁手像を確立し、それは、いまなお最高レベルにある」と評する声が、特に戦前のプレーを見た関係者に多い。もちろん、仮に最後の規定打数到達(昔は打席ではなかった)の41年(大洋時代)を14歳で見たとしても、その人は、もう90歳だ。もはや伝聞を伝聞したレベルだろう。

 かと言って、これからの話を懐古趣味の一言で片づけるのは、ご勘弁いただきたい。瞬間的な身のこなしや器用さ、判断力が要求されるセカンド守備は、バッティングのように体のサイズや筋力に大きく左右されるものではない。稀に登場する天才が創意工夫をし、かつ人一倍の練習を重ねることで、80年近い昔であれ、超人的なプレーヤーが生まれる可能性があった。ある意味、その天才の1人が、広島菊池涼介でもある。

 苅田は1910年1月19日、神奈川県に生まれ。旧制・本牧中から法大に進み、卒業後は東京中央放送局(現NHK)に入社し、東京倶楽部でプレーした。当時はショートで、34年にベーブ・ルースらを擁する全米選抜と戦うために結成された全日本チームに参加し、そのまま大日本東京野球倶楽部、のちの巨人に契約第2号選手として入団した。

 35年10月には第1次アメリカ遠征、直後の国内遠征にも参加。しかし、あまりの待遇の悪さに嫌気がさし、しょう紅熱で長期入院したこともあって、一度は野球から離れた。

 それでも縁あって36年プロ野球スタート時には東京セネタースに入団。そのとき「給料はどうでもいいから」と条件にしたのが、セカンド転向だった。

 当時26歳、肩の衰えやショートに法大の後輩・中村信一がいたこともあるし、「アメリカでセカンドが重視されているのが分かった。俺も日本のセカンド像を変えてみようかと・・・

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