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球場特集2017

西本聖(野球解説者) 僕の心に残るあの球場、あのシーン 「初登板の甲子園では、打たれた悔しさより投げられた喜びのほうが上回っていた」

 

投手として3球団を渡り歩き、セ・パ両リーグの多くの球場で投げてきた西本聖氏。それぞれに思い出はあると語るが、その中でも特に印象に残る球場を厳選。忘れられないエピソードを明かしてもらった。

後楽園球場で勝利を手にした後、ベンチで充実感をにじませる


あこがれの甲子園でプロ初マウンド踏む


 思い出の球場を一つ挙げろと言われたら、やはり甲子園ですね。僕が高校生だったころ、やっぱり夢といえばプロ野球選手になることではなく、まず甲子園に出ることでしたから。そこを目指して松山商高で毎日厳しい練習をしていたわけです。それでも行けなかった。それが、プロ入りして初登板が甲子園ですから。やはり、運命というか、思い入れは強かったですよ。

 あれは2年目の1976年でしたね。ドラフト外で巨人に入団して、まさか2年目に開幕一軍入りできるとは思っていなかったので、驚きました。当時は今のような分業制などなく、先発完投が当たり前。先発が崩れてしまえば、あとは敗戦処理が投げるしかないわけです。僕は一軍の投手枠の最後尾に滑り込んだようなもの。役割は分かっていました。

 開幕から3カード目の阪神戦。そのシーズン初の遠征で、しかも甲子園ですから。もう、練習のときから感激しているわけです。一礼して、グラウンドに足を踏み入れた瞬間に「あ、これがずっとあこがれ続けた甲子園のグラウンドなんだ」と。この球場に来たのは初めてではなかったんです。僕は7人きょうだいの末っ子だったんですけど、兄の三男・明和、四男・正夫が松山商高で甲子園に出場したので、どちらのときも応援に行きました。三男は66年夏に準優勝、四男は69年夏に優勝しています。ただし、応援席から見た甲子園と、実際に足を踏み入れた甲子園の風景はまったくの別物。とにかく、大きく感じました。

松山商高校時代に手の届かなかった甲子園では、阪神を相手に数々の好投を見せた


 僕に出番が回ってきたのは、そのカード2戦目の4月15日でした。その試合では5回までに11点を奪われるという敗色濃厚な展開。こんな負けゲームにいいピッチャーを使うわけがないので、ひょっとしたらチャンスが来るかな、とは思っていました。当時はラッキーゾーンにブルペンがあって。試合の展開を見ながら、また、球場の雰囲気を感じながら準備していました。そして投手コーチから「行くぞ!」と言われた瞬間に、緊張感と高揚感が入り交じったような感覚がありました。

 4対12とリードされた8回裏の先頭からでした。ブルペンからマウンドに向かったわけですけど、正直、そのあたりから・・・

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