巨人と並び屈指の歴史を誇るタイガース。その監督も名将あり、そして残念ながら迷将ありとさまざまだ。今回は優勝に導いた男たちを中心に紹介していこう。 44年、球史に残る若林のフル回転
阪神の監督第1号は、
森茂雄だったが、1936年7月に突然更迭され、秋からは石本秀一。
広島商の監督として“真剣白刃渡り”などをさせた男であったが、松山商出身の
景浦将ら森を慕う選手もいて、彼らの反抗的な態度にずいぶん手を焼いたようだ。それでも石本はアメとムチでチームをまとめ上げ、37年秋、38年春に優勝し、いずれも年度優勝決定戦では巨人を破った。
松木謙治郎を挟み、42年から選手兼任で監督となったのが、ハワイ生まれの
若林忠志。七色の魔球を駆使したエースでもあった。その若林の下で優勝を飾ったのが44年だ。戦局の悪化により途中打ち切り、35試合となったペナントレースで、36歳の若林は、31試合に投げ、24完投、22勝(チームは27勝)と投げまくった。戦後の再開時には疎開先の宮城県石巻で実業家となっていたが、46年途中復帰。47年には再び選手兼監督となって優勝に導いた(若林は26勝)。
若林が多くの主力選手ともに49年オフ、毎日へ引き抜かれた後、2期目の松木のあと、プロ経験のない岸一郎が55年に監督となったが、選手から総すかん。5月21日に痔の悪化を理由として退任。その後は、ミスタータイガース、
藤村富美男が指揮を執ったが、こちらはこちらでスタンドプレーが選手の批判を浴び、57年オフに排斥騒動が起こった。58年に一選手に戻った後、引退している。
田中義雄、
金田正泰を経て、61年途中から藤本定義監督。戦前、巨人で黄金時代を築いた名将で、「伊予狸」とも呼ばれた。日本球界で初めて先発ローテを確立した指揮官としても知られる。62年は
小山正明、
村山実、64年は村山、バッキーの先発二本柱で優勝。いずれも日本シリーズでは敗れている。
藤本は
杉下茂に禅譲する形で66年に総監督へと退いたが、杉下の世代交代策が選手の反感を呼び、8月に退任したことで復帰。69年の
後藤次男を挟み、70年には、村山実が・・・
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