週刊ベースボールONLINE

2019外国人特集

悲劇の大投手スタルヒン/助っ人こぼれ話

 

長身から投げ込む速球は異次元のレベルだった


 いまさら、と言われそうだが、今回の特集は前提が難しい。要は“外国人とはどこまでを含むか”だ。次ページからの名鑑には、外国人枠が生まれた1952年以降に外国人選手扱いとなった時期がある選手とし、たとえば在日韓国人で日本国籍を持たなかった選手は含んでいない。

 外国人枠という発想が生まれたのは、1951年途中、巨人に入団した日系アメリカ人・与那嶺要のプレーがあまりにも“すごかったから”と言われる。規制をしなければ、パワーバランスが崩れるという危機感だ。戦前から日系人選手は、野球の本場アメリカからの、いわゆる“助っ人”として多数来日していた。彼らは日本にルーツを持つが、米国籍のみで日本国籍はなかった。

 ターニングポイント、いや“踏み絵”となったのは戦争だ。41年、アメリカは在日米人の強制帰還令を出し、多くの日系人選手が日本を離れた。その中で、日本国籍を選択、つまりはアメリカ国籍を放棄したのが、阪神にいた若林忠志らだった。

 国籍ということでは、もっとも複雑なのがスタルヒンだろう。通算303勝、39年にはシーズン最多42勝を挙げた鉄腕だ(西鉄・稲尾和久とタイ)。スタルヒンはロシア革命で迫害された、いわゆる“白系ロシア人”で、両親とともに幼少期に無国籍となって政治亡命した。その後、メジャー選抜チームと対戦するために結成された大日本東京野球倶楽部(巨人の前身とも言えるチーム)に参加する際、関係者に「僕は日本に帰化します」と明言したそうだが、その後は何度申請しても認められなかったらしい。40年からは須田博と日本名を名乗らされ、終戦間近の時期は軽井沢に軟禁された。

 不思議なのは、終戦直後、進駐軍の通訳をしていたことだ。スタルヒンが英語を話せたという記録は一つもない。46年途中パシフィックで球界に復帰し、55年限りで引退した。57年1月12日、自動車事故で死亡。まだ、40歳だった。
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