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あの夏の記憶1991-1993 EXCLUSIVE INTERVIEW

元巨人・高橋由伸インタビュー 人間形成と高校野球 「甲子園に出られるなんて、考えもしませんでした」

 

東京六大学通算23本塁打はいまなお最多記録。その慶大時代の華々しいプレー、そして逆指名(1位)で進んだ巨人での活躍の陰に隠れがちだが、桐蔭学園高時代もすごかった。1年夏からクリーンアップに座り、2年夏にはマウンドにも。意外に知られていない、高橋由伸氏の“あの夏”に迫る。
取材・構成=編集部 写真=長岡洋幸(インタビュー)、BBM


野球を教わった記憶が……


 高校野球というキーワードで、真っ先に思い浮かぶのが寮生活です。千葉の親元を離れて神奈川へ。洗濯、掃除、食事と、全部やってもらっていたことを、今度は自分でやらなければいけなくなる。それに、実家にいたときは自分の部屋があって、プライベートな時間と空間があったものが、桐蔭学園ではいきなり10人部屋ですからね……。集団生活で、たくさんのルール・決まり事もあり、この環境の急激な変化に慣れるのが、とにかくしんどかったことを覚えています。

 今だから言えることですが、入学前、実は桐蔭学園のことは詳しくは知らなかったんです。当時はまだアクアラインも通っていない時代で(笑)、千葉の中学生にとって、神奈川は近そうで遠い東京湾を挟んで反対側の県。ただ、ポニー(・リーグ)の全国大会で優勝(2連覇)していたこともあり、地元の千葉を含めていくつかの高校からお誘いをいただいていて、その中の1つに桐蔭がありました。桐蔭を私に強く勧めたのは母で、実家から離れたところで自立させたいという思いが強かったそうです。正直なところ、進学にあたって甲子園というものは、私自身も、両親も現実のものとしては考えていなかったのではないでしょうか。

 ですから、環境に慣れるのに必死な状況の中で、1年(1991年)夏は気付いたら甲子園に出ていた、という感覚。私は入学してすぐに試合に出ていましたが、あれよあれよという間にトーナメントが進み、「勝っちゃった」と。激戦区の神奈川を勝ち抜く難しさをこのときはまだ、感じることもありませんでした。2年生のときのほうがプレッシャーはあったかな? ビックリしたのは千葉の地元の知り合いではないでしょうか。特に中学校の先生たち。中学時代は車で40〜50分離れたところにある硬式のクラブチームに入っていて、学校では野球部所属ではなかったですからね。先生たちは私が野球をしていたのも知らなかったはずです。進学の際にも「なんで神奈川の学校に行くの?」というのもあった中で、「おい、高橋が甲子園に出ているぞ」と(笑)。

 ただ、私自身も甲子園に出られるなんて、考えてもいなかったんです。桐蔭学園に来てみて・・・

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