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真夏の主役はベイだ!

あのときハマは熱く燃えていた 1998年、38年ぶりの横浜の歓喜

 

すでに21年前になるが、横浜が熱く熱く燃えた年があった。大魔神、マシンガン打線。多少物騒な言葉が飛び交った奇跡のような1年だった。

リーグ優勝は甲子園で決めた。佐々木が谷繁と抱き合ってジャンプ


 1998年、あのとき、横浜には魔法がかかっていた。

 横浜高が平成の怪物・松坂大輔の怪腕で甲子園を春夏連覇。特に夏、あまりにも劇的な展開に、日本中の野球ファンの目が釘付けになった。しかも、だ。まさか万年Bクラスの横浜ベイスターズが38年ぶりの優勝に向け、快進撃を続けるとは……。

 横浜球団としての初優勝は60年の大洋ホエールズが初だった。名将・三原脩監督の下、6年連続最下位から、まさに奇跡のリーグ優勝、そして日本一だったが、このときは川崎球場が本拠地。横浜移転後の優勝は、98年が今のところ最初で最後となっている。

 しかしながら、あの年の横浜はまったくのノーマークというわけではない。97年は大矢明彦監督の下、勝率.533で2位。80年以降、5割超えは、83年、関根潤三監督の下、61勝61敗の5割での3位と、95年、近藤昭仁監督の下、66勝64敗の.508で4位の2度だけだった。原動力は打ち始めると止まらない「マシンガン打線」と絶対的クローザー、“大魔神”佐々木主浩だ。8月には首位ヤクルトに2.5ゲーム差まで迫り、一時は逆転優勝も予感させた。

 オフに大矢監督はフロントとの確執もあって退任。後任は権藤博バッテリーコーチとなった。権藤は近鉄などで投手コーチとしては高い評価を得ていたが、監督としてはまったく未知数。力量を疑問視する声もあったが、その声を無視するかのごとく、独自の取り組みをした。自身を「監督」と呼ぶことを禁止。「権藤さん」と呼ばせ、これをマスコミ、球団関係者にも徹底した。ミーティングをやらず、全体練習を短かめにし、自主性に任せた。

 甘やかしたわけではない。口癖は・・・

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