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恐るべき10代

土井正博(元近鉄ほか)『18歳の四番打者』の真実 「別当監督に『外してください』と言ったこともあります」

 

まさに天国と地獄だ。1961年オフ、一度は整理要員となり、解雇が決まっていた。それが監督交代により、撤回され、さらには翌62年、「18番の四番打者」と言われ話題を呼び、以後中軸バッターに成長していく。そのブレークの陰に2人の“オヤジ”との出会いがあった。

3年目63年のフォーム。まだ構えが固い


クビのはずが……


「18歳の四番打者」は、通算465本塁打をマークした土井正博の若手時代の異名だ。響きのよさもあって半世紀以上が経っているにもかかわらず、多くの人の記憶に残るが、この言葉は土井の力だけで輝いたものではない。2人の恩師たちの強い思いによって生まれ、彼らと土井の、“三人四脚”で育んだものでもある。

 大阪・大鉄高の2年時、センバツ甲子園に出た後、土井は見知らぬ男が家を訪ね、母親と話をしている姿を見るようになった。父親は土井が1歳のときに戦死。母親は小さな書店を経営しながら姉と土井を女手一つで育てていた。

 しばらくして、それが近鉄のスカウトであると聞いた。

「最初から同じ方だったかどうかは知りませんが、僕がお会いしたのがスカウトをしていた根本(根本陸夫)さん(のち西武監督など)でした。それで『プロに来ないか』と。まだ2年生なんでプロなんて考えてもなかったんですが……」

 驚いたが、家は決して裕福ではなかったので、プロに行けば、家計を少しは助けることができるだろう、とも思った。ほかの球団からの誘いもなかったので、行くなら、このタイミングしかないと思い、中退しての近鉄入団を決めた。まだドラフト制度はなかった時代である。

「あとで聞いたら、根本さんにやられたって言うてるスカウトがたくさんおったそうです。『土井は大学に行くようになってるから』と、言っていた、と。寝技師らしいやり方ですね(笑)。阪神も興味を持ってたらしいんですが、僕はセでは阪神が好きだったんで、言われたら、そっちに入っていたかもしれんですね。ただ、パでは近鉄が一番好きでしたよ。高校に通うとき乗ってましたし、よく自転車で藤井寺の練習を見に行きました」

 近鉄は1959年から元巨人の名選手・千葉茂が監督となっていた。ニックネームも「パールス」から「バファロー」(最初は複数形ではなかった)に変わったが、相変わらず弱く、万年最下位の時代だ。

 1年目の61年、一軍出場はないが、二軍ではそれなりに打った。しかしオフ、チームが秋季練習に入る前、「お前は練習に来んでもいいから、のんびりしてなさい」と言われた。土井は「ラッキーやな、休めるんや」と、それを素直に受け取った。

 実は千葉監督の構想に合わず、整理要員になっていたのだが、土井にとっては初めてのシーズンオフでもある。単に「秋は休める者もいるのだな」と思っていた。

「千葉さんはコツコツ当てるアベレージヒッターが好きで、僕みたいにフルスイングするタイプは好きやなかったようです。お目にかなわなかったということですね」

 日にちが経つにつれ、さすがの土井も「あれ、なんかおかしいな」と思うようになる。

 しかし、10月末になって運命は180度変わる。千葉が突如退任。後任は阪神、毎日の強打者で、毎日で監督経験のある別当薫となった。

「その後、根本さんから連絡があって練習に参加したんですが、しばらくして、別当さんから『来年から一軍で行くぞ。そういう覚悟で練習せえ』って言われました」

 秋の練習が終わると、別当監督は土井に・・・

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