ここからは85周年での2度目の日本一を目指す阪神にOBからエールを送ってもらおう。チーム唯一の日本一になった1985年のシーズン。当時ダブルストッパーとして逆境の中でもマウンドに上がり続けた2人が、85年当時を振り返りつつ、今季の阪神を占っていく。 取材・構成=椎屋博幸、写真=石井愛子、BBM 打球が当たった?
1985年の日本一を語るときに、「バース、掛布、岡田」が代名詞だが、ダブルストッパーを務めた山本和行と中西清起が投手陣の中心だった。当時、山本はセーブ王2度獲得の14年目のベテラン。中西は入団2年目の“駆け出し”だった。 中西 優勝した85年、カズさんがアキレス腱切ったのは9月の初めでした?
山本 9月4日やったかな。ナゴヤ球場やったよ。
中西 パキーン! って音がしたのを鮮明に覚えていますよ。
山本 お前近くにいた?
中西 いました、いました。外野でダッシュしているときですよ。福間(
福間納)さんと一緒にダッシュして。カズさんが先に走っていて、駆け出す瞬間でした。僕と福間さんはダッシュを終えて、スタート地点に帰ってくるときに僕らの目の前で突然倒れたんです。
山本 そう、走る瞬間だった。打撃練習中の打者の打球が当たったと思ったわけ。だから、福間に「打球が来たなら教えろよ!」と言ってそのままドタッと倒れたんだよ。まさかアキレス腱が切れてるとは思わないし、その患部がジーンとしているから、ずっと打球が当たったものだと。
中西 カズさんが福間さんにそう言っているのを聞いて、そんな打球は来てないけどなあ、と僕は思っていました(笑)。
山本 打球と違うのか、と思いながら患部を触ったらグニャとなっていたのでね、これは(アキレス腱が)切れてるわ、と。この時期はまだチームにマジックが出てなかったんだよね。
中西 9月末くらいじゃなかったですかね……(資料を見て)9月11日か(マジック22)。
山本 病室でマジックが出るその試合を見てたなあ。その後3週間くらいで退院してリハビリを始めた。
中西 この年はいろいろなことが起こりました。日航機墜落事故で中埜(中埜肇)球団社長が亡くなり、あの事故以後6連敗しましたね。でもカズさんが離脱して、僕には結構なプレッシャーがありました。
山本 吉田(
吉田義男)監督が85年はダブルストッパーでいくと。最初、僕はその構想は知らなかった。だから、自分の使われ方が分からず理解できなかった。
中西 僕は、あの伝説のバックスクリーン3連発があった試合(4月17日
巨人戦=甲子園)でこの年の初登板で初セーブを挙げたんです。ここで吉田さんは「使える」と思ったと後で言っていましたね。
山本 僕もそれまで抑えとしてやってきたから、自分の出番のタイミングとかあったけど、それが分からんようになった。「アレ? オレじゃないの」とか「ここでオレ?」と思うことが多々あった。
中西 カズさんは2度もセーブ王(最優秀救援投手)を獲得してましたし、そういう出番が分かってますからね。僕は2年目で、言われたらマウンドに上がり一生懸命投げるだけの状態でした。
山本 開幕戦(
広島)で投げてサヨナラ負けを食らい、翌試合でセーブを挙げた。その後に中西が投げてセーブを挙げて、その辺りから投げる順番が変わった。その最初が、あのバックスクリーン3連発のときか……。
中西 あの試合は3点差あったのですが、8回に福間さんが2発本塁打を打たれ1点差になったんです。2人で肩を作っていて、僕は当然カズさんが9回を投げるんだと思っていました(6対5で勝利)。
山本 ここが、僕の使われ方がよう分からなくなった瞬間やね。当時はヨネさん(
米田哲也投手コーチ)ともそういう話はなかったなあ。
中西 でも、今のように1回限定という使われ方はなかったですよね。僕は3試合連続3イニング登板というのがあったんですよ。大洋戦だったと思うのですが
高木豊さんに・・・
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