剛速球というより、新人ながら完成度の高いピッチングを誇った“勝てる投手”だった。1年目から20勝を挙げ、入団5年で99勝。瞬く間に球界を代表するエースに成長したのだが……。 制球力、投球術も抜群だった
下関商高時代、2年春のセンバツ甲子園で全国制覇。夏は左肩を脱臼しながら甲子園準優勝を飾った。3年はセンバツが初戦、夏は県大会で敗れたが、
池永正明の名は全国にとどろいていた。大争奪戦の末、西鉄入団。当時の高校生としては破格の5000万円の契約金を手にしたと言われる。同期には海南高で3年センバツの優勝投手となった
尾崎正司(尾崎将司)がいたが、「池永には野球では勝てない」とゴルフの道に進んだ。
弾むようなフォームから繰り出されるキレ味抜群のストレート、変化の大きなカーブ、さらにスライダーが武器。いきなり20勝を挙げ、新人王にもなった。ベテランの強打者相手でも遠慮なく内角をえぐり、当ててても平然としていた強心臓右腕だ。
3年目の67年には23勝で最多勝。守備や打撃も一流で、
中西太監督は「あいつがもう少し勝てんかったら、打者に転向させるんだがな」と言ったこともある。
しかし70年途中・・・
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