バリバリのメジャー・リーガーだったが、日本の文化にすぐに溶け込み、陽気な性格とバンザイ三唱のパフォーマンスでファンの心をグッとつかんだ。バットを持てば快打を連発。1989年のシーズン打率.378は今なお球団記録(シーズン3割以上は5度)。愛すべき史上最強助っ人である。 取材・構成=坂本匠 写真=BBM 83年オフの契約交渉
いまなおファンに愛されるクロマティがジャイアンツに帰ってきた。今季から正式に球団アドバイザーとして後輩たちの指導に当たる。第89代四番の岡本和真も、強打の捕手・大城卓三も、彼の「教え子」。6000勝の喜びを語るとともに、ジャイアンツのクロマティ誕生秘話を明かしてくれた。 ジャイアンツ6000勝、おめでとうございます。日本は僕の第2の故郷で、ジャイアンツはホームチームですから、とってもうれしいです。今年からチームの『アドバイザー』という役職に就いていて、日本で一緒に開幕戦勝利の喜びを分かち合うことができたのも幸せでした。
実は昨年の8月ごろからチームと行動をともにしているのですが、6月に来日したときに、僕の大切なチームメートであったハラさん(
原辰徳監督)から「岡本(岡本和真)を助けてくれないか?」とオファーがあって、球場に足を運ぶようになりました。ちょうどオカモトさんが調子を崩していた時期で、ほかでもないハラさんのお願いでしたし、大好きなチームのために力になれるのであれば、と。その後、オカモトさんが復調し、オオシロさん(大城卓三)たちにも打撃を教えることになったのですが、彼らの力もあって、5年ぶりの優勝ができたのは本当に良かったですね。昨年は技術的なことを中心に、今年はメンタル面でのアプローチについても教えていますが、オカモトさんもオオシロさんもスケールの大きなバッターになってくれると期待しています。
今年の開幕戦で通算6000勝に到達したジャイアンツですが、僕がプレーした1984年から90年までの7シーズンでは、519勝を挙げていると聞きました。Oh My God!!
すごいですね〜。ただ、88年は骨折をして49試合にしか出られなかった。あの年にケガをせずに全試合に出ていたら、トータルで600勝分は貢献できていたかもしれませんね(笑)。
それにしても、日本で最初に6000勝に到達するような、素晴らしいチームに関われたことを本当に誇りに思います。83年のオフに東京に来る決断をしなければ、今ごろはどうなっていたのかな? ちょっと、当時のことを振り返ってみましょう。
83年のオフですが、プロ入りから10シーズン(※メジャーでの実働は9シーズン)を過ごしたモントリオール(・エクスポズ)をFAとなりました。いくつかの球団と交渉し、サンフランシスコ・ジャイアンツへの移籍がほぼ決まりかけていたんです。あとは正式契約を残すだけ。49番の入ったユニフォームまで用意され、記者会見の日程まで決まっていて、僕の心もサンフランシスコに固まっていた。でも、ちょうどそのときに「ちょっと待って」と東京からヒラノさん(※平野博昭渉外担当、当時)がやって来ました。
巨人はそのころ、オーさん(
王貞治)が監督に就任して、翌84年は球団創設50周年という大事な節目。とにかく目玉になる即戦力のメジャー・リーガーを探していると聞きました。ヒラノさんが言うには「王さんが君のことが大好きだから、日本においで」と。もちろん、メジャー・リーガー、みんなオーさんのこと、知っています。868本のホームラン、本当にスゴイ。私も尊敬していました。でも、移籍に関しては即答で・・・
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