日本野球史上唯一のオリンピックでの金メダル獲得に貢献したのが当時明大4年生だった若き主砲だ。一時は出場すら危ぶまれた日本はなぜ、金メダルを獲得できたのか。歓喜の舞台裏を明かす。 取材=富田庸 アメリカとの決勝でホームランを放ち、笑顔でダイヤモンドを一周。写真左は鈴木コーチ
92年のバルセロナ五輪でアメリカがバスケットボールのNBA選手をオリンピックに出場させたことで、「プロ選手も出場できる」という流れになりましたよね。ですが、私が出場した1984年当時は、オリンピックはアマチュアの祭典でした。そのオリンピックの話をする前に、日米大学野球について説明しなければいけません。当時から日本とアメリカで隔年開催。私が2年生のときにはアメリカで開催され、帰りにハワイに寄り、真っ黒に日焼けして帰ってきた上級生がいたんです。「そうか、大学日本代表に選ばれると、ハワイに行けるんだ!」。実に不純ですけど(苦笑)、私が大学日本代表のメンバー入りを目指した理由がこれでした。
五輪出場を争うアジアには、
宣銅烈(元
中日)擁する韓国、
郭泰源(元
西武)擁する台湾がおり、出場枠は「2」。日本は太刀打ちできませんでした。やはりアジア予選で敗れ、本当はロス五輪には出場できなかったはずなのですが、アメリカが80年モスクワ五輪をボイコットしたことを受け、東側諸国が同じ措置を取ってきた。キューバのボイコットにより、日本の繰り上げ出場が決まりました。ただ、予選の戦いぶりから「社会人だけでは勝てない」と松永怜一監督(住友金属)が判断したようで、大学生にも声が掛かりました。
私が4年時の大学日本代表は渡米前、社会人チームと壮行試合を行っていました。それを松永監督、鈴木義信コーチ(東芝)が視察していました。その試合が事実上の選考会。でも、私は・・・
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