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日本野球を変える? 新庄ファイターズ誕生!

2006年現役ラストイヤーのコーチの視点 平野謙(野球解説者) 「パフォーマンスだけじゃない。勝ったからこそ、北海道ファイターズは市民権を得た」

 

2004年、新庄剛志(SHINJO)は日本ハムで日本球界に復帰した。中日西武ロッテで外野守備の名手として鳴らした平野謙氏は、3年目の06年に外野守備走塁コーチとして入団し、同年、新庄とともに北海道移転後初のリーグ優勝、日本一に輝いた。当時のコーチの目で見たSHINJOパフォーマンスの真実とは──。

日本ハムコーチ時代の平野氏[中央]


野球に対してマジメ


 派手な就任会見でしたね(笑)。新庄らしく、好きなようにしゃべっていただけのように思ったかもしれないけど、あれはあれで彼の覚悟もあったと思います。あそこまで言って結果を出さんわけにはいかないでしょ。自分にプレッシャーを掛けるというのはあったと思いますよ。まあ、聞いたら絶対に「これが僕の素ですよね」と言うでしょうけど(笑)。

 監督に決まったと聞いたときは、正直、びっくりしました。稲葉(稲葉篤紀)は侍ジャパンの監督もしていたし、てっきり彼が新監督だと思ったらGMで、しかも新庄監督でしょ。確か学年は新庄が1つ上ですよね。現役時代から仲が良かったし、性格は違うけど、現役時代の関係性を考えると、GM、監督でも、いいコンビになると思います。

 別に僕が新庄を知り尽くしているわけじゃないですよ。一緒にやったのは、2006年だけですからね。ただ、1年しかしていないけど、ほぼほぼ、彼らが目標とする野球は、あの年に集約されていると言っていいんじゃないかと思っています。

 2004年に日本ハムが北海道に移転し、ちょうど彼も日本ハムに入った。1年目は3位にも入って盛り上がったけど、05年は成績も5位だし、最初ほどの集客はなかったと聞きます。そのオフ、僕が一軍外野守備走塁コーチで呼ばれたときも、高田(高田繁)GMは「今年は絶対に勝たなきゃいけない」という話をしていました。実際、やってみて感じたことですが、北海道のファンはすごくはっきりしていて、勝てば喜んで球場に来てくれるし、負ければそっぽを向く。まだ来て2年だったから、本当の意味で定着してなかった、ということでしょうね。

 ただ、「絶対に勝たなきゃいけない」と高田さんに言われても、僕は監督を任されたわけじゃないんで、自分の仕事である外野手と走塁の強化に力を入れました(当時はヒルマン監督)。外野は新庄がセンターで、稲葉がライト。レフトは固まってなかったけど、森本(森本稀哲)が成長し、シーズンでは鉄壁の外野陣と言われるようになった。僕がどれだけ貢献できたかは分からないけど、あの年の開幕前・・・

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