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背番号ストーリー2022 ─数字に宿る魂─

【永久欠番の系譜】簡単に「永久欠番」を制定しないことが各球団の「スペシャル」の系譜を生んだ

 

多大な功績を残した選手のナンバーを、球団が欠番とすることで敬意をもって称える「永久欠番」。だが、その数は決して多いものではない。永久欠番の歴史と、そこから生まれた新たな系譜をひも解く。
写真=BBM

長嶋の「3」と王の「1」をはじめインパクトの強い「永久欠番」だが、その数は決して多いわけではない


永久欠番の数は多くない


 野球界で最初の永久欠番は、MLBのヤンキースで当時の世界記録である2130試合連続出場を果たしたルー・ゲーリッグの「4」。筋萎縮性側索硬化症により記録のストップ、さらに引退を余儀なくされた1939年に球団が欠番としたが、日本でも導入されたのは早く、巨人黒沢俊夫が1947年のシーズン中に腸チフスによって急死したことで、44年に戦死を遂げていた沢村栄治の「14」とともに「4」が永久欠番に制定された。

 58年には阪神の創設メンバーである藤村富美男の「10」が最初で最後の「1人の選手だけが着用した永久欠番」となり、中日西沢道夫の「15」、服部受弘の「10」が続いて、監督になってからも着け続けていた川上哲治が「77」に変えたタイミングで「16」が巨人3番目の永久欠番となる。巨人で現役を終えた400勝投手・金田正一の「34」、阪神の大エース・村山実の「11」が続き、74年に長嶋茂雄の「3」も引退とともに系譜に連なった。

 王貞治が着けた「1」は引退後も助監督・監督としてその背中にあったため、正式に制定されたのは監督退任後の89年。その間に広島山本浩二の「8」、衣笠祥雄の「3」、85年には近鉄で300勝左腕・鈴木啓示の「1」がパ・リーグ初の永久欠番となったが、2004年の近鉄とオリックスの合併を受けて本人了承の上でオリックスの永久欠番としては引き継がれないことになった。

 その後は楽天が10人目の選手を意味する「10」をファンナンバーとし、日本ハムは大社義規元オーナーが殿堂入りした記念に「100」を欠番とした。そして最新の永久欠番は、闘将・星野仙一が逝去した18年に楽天が制定した監督時代の「77」。純粋な監督ナンバーとしては初の永久欠番となった。

 長嶋の「3」と王の「1」をはじめ強烈な印象を与える「永久欠番」だが・・・

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