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背番号ストーリー2022 ─数字に宿る魂─

DeNA・受け継がれるハマの「18」伝説 エース番号の重みと誇り

 

背番号の数だけストーリーが存在し、選手やファンの番号への思いもまたさまざまである。横浜で愛されているのが「18」だ。三浦大輔監督がエース番号に育て上げた背番号は、今季よりドラフト1位右腕・小園健太へと託された。
文=滝川和臣 写真=BBM

「#18」三浦大輔[監督]→小園健太[投手/ドラフト1位]

三浦監督は現役時代の19年間に、コーチ時代の2年を加えて21年にわたって18を着けた


 ベイスターズに永久欠番は存在しないが、準永久欠番扱いの背番号はある。1つは、2020年に海を渡った筒香嘉智(現パイレーツ)が着けた25。松原誠村田修一ら歴代スラッガーの背中で輝いた番号ではあるが、球団はキャプテン・四番としてチームをけん引した筒香の貢献度を高く評価し、三原一晃球団代表が「彼が日本に帰ってくるまで空けておく。現役の間は、ほかの選手が着けることはない」と明言している。

 そして、もう1つが現監督である三浦大輔が現役19年間、コーチ2年間で背負った18である。入団から横浜一筋の男は1998年の38年ぶり優勝&日本一を経験。その後のチームの長い低迷期も投げ抜いてきた。そんな三浦はいつしか“ハマの番長”と呼ばれ、背番号18は、エース番号として広くファンに愛されるようになった。16年の現役引退に際して、球団は18を「横浜ナンバー」とし、エースの座を受け継ぐにふさわしい存在の登場まで封印された。

実力で勝ち取り育て上げた背番号


 奈良県出身の三浦は、父親が大阪市内の商店街で阪神岡田彰布の後援会メンバーを務めていたこともあり、周りは阪神一色。当然、自身もタイガースファンであり、記憶に残る背番号は岡田の16、真弓明信の7、掛布雅之の31だった。

「幼少のころは阪神が身近でした。でも野球を始めてからは、やっぱり1番、エース番号にあこがれていたし、そこにこだわってやっていました」

 野球エリートではなかったが、高田商高ではエースとして3年夏に奈良大会決勝に進出。惜しくも天理高に敗れて甲子園には届かなかったもののドラフト6位で指名を受けて1992年、大洋(現DeNA)に入団する。

「プロに来てからは、何番を着けたいというよりも、まずプロになれたことが大きかった」と新人のころは毎日が必死だった。背番号は46が与えられた。

「この番号とともにプロ生活がスタートするんだという気持ちですよね。背負っているうちに徐々に愛着が生まれてきた。初勝利も46で挙げたわけですから」

 プロ2年目、横浜ベイスターズへと生まれ変わった球団でプロ初勝利。4年目の95年には8勝をマークして、先発投手としての地位を築いていく。同時に芽生えていったのが若い背番号への憧憬だ。今でこそ、若い投手は結果を出せばすぐに若い番号へ変更してもらえるが、当時の横浜はそう簡単ではなかった。結果的に46は6シーズン、三浦の背中にあった。

「6年が長いとか、短いは感じなかったけれど、入団して4、5年が経ったころ、18がいいなって。野球界ではエース番号だし、ジャイアンツの桑田(桑田真澄)さんの後ろ姿がカッコよかった」

 90年代前半、横浜の18は・・・

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