あまりにも濃密な夏だった。鹿児島では県立校として53年ぶり、鹿児島工としては春夏通じて初の甲子園出場も序章。早実・斎藤佑樹との邂逅と敗北を経て、ジャパンのユニフォームに袖を通し、アメリカ遠征ではさらに多くのものを手にした。今の自分があるのは、あの夏があったから──。 取材・構成=杉浦多夢 写真=BBM 「認められた」早実戦
2006年の夏で、大袈裟ではなく僕の人生は変わりました。
鹿児島工は鹿児島出身の選手ばかりでしたが、捕手で四番の鮫島哲新やサードの今吉健志、代打で沸かせた今吉晃一などメンバーがそろったチームでした。しかも夏の鹿児島大会では、私学の強豪がことごとく序盤で姿を消していった。僕らは第3シードだったので優勝が現実的なものになっていったと同時に、「もしかしたら次に負けるのは自分たちなんじゃないか」というプレッシャーも大きくなっていきました。
その中で僕は大会を通してエースらしい投球ができませんでした。第3シードはタフな日程で決勝までの6試合を10日間で戦ったのですが、その間に65kgくらいあった体重が8kgほど落ちてしまった。試合開始が正午ごろの試合が多く、試合開始までに昼食を食べ過ぎて動けなくなってはいけない、試合が終わるとヘトヘトで食欲がない。その繰り返しで、試合のたびにベルトを留める穴が1個、また1個と日に日に小さくなっていくんです。
鹿屋との決勝も8対7で勝ったんですけど、打たれた記憶しかない。僕と二番手の下茂(下茂亮平)の2人で19安打されて、7失点で収まったのが不思議なくらい。「本当に甲子園に行けるんだ」というフワフワした気持ちになりながら・・・
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