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プロ野球90年特集 球団別最強四番&ベストナイン

超スラッガーの肖像 「12+1」球団別“最強四番”は?【パ・リーグ編】

 

ラインアップの真ん中に座り、打線をけん引した四番は球団の顔と言える。現存する12球団に加え、2004年に消滅した大阪近鉄から“最強四番”を編集部が独断で選出。永遠に記憶に残るスラッガーのすごさとは──。
写真=BBM
【セ・リーグ編】はこちら

南海・野村克也 脅威の一人3役をこなして


野村克也[捕手]1954-1977


【球団在籍時成績】24年=2827試合、2813安打、645本塁打、1940打点、打率.279

 通算出場数3017試合はプロ野球歴代2位。そのうち南海では2827試合に出場し、2256試合で四番に座った。球団史上ダントツの記録を誇る四番打者だ。テスト生として足を踏み入れたプロの世界で、努力を重ねて攻守で不動の地位を築いた。1965年には戦後初の三冠王に輝くなど、捕手ならではの鋭い配球の読みで本塁打も量産。パ・リーグ最多記録となる9度の本塁打王、7度の打点王は、すべて南海時代に獲得している。70年からの8年間は監督を兼任。頼もしいのは、「指揮官」で「扇の要」で「四番打者」と一人3役をこなしながらも試合に出続け、結果を残し続けたこと。1973年には前期優勝、プレーオフを制してリーグ優勝も果たした。文字どおり、打線の、チームの中心人物だった。

東映・張本勲 安打製造機にして「強打者」


張本勲[外野手]1959-1975


【球団在籍時成績】17年=2136試合、2435安打、414本塁打、1341打点、打率.322
※日拓フライヤーズ、日本ハムファイターズにも在籍

 歴代最多の通算3085安打を放った球史に残る安打製造機は1959年に高卒新人ながら開幕スタメンに名を連ねると、6月下旬から四番に抜てきされて新人王を獲得。3年目に首位打者獲得と着実に成長を遂げ、62年には本塁打&打点でリーグ2位。リーグ優勝に貢献してMVPに輝くと、日本シリーズでは全7試合で四番に座って日本一の原動力となった。65年に大杉勝男が入団し、60年代後半は弟分に四番の座を託すことになったが、打棒はますます冴え渡って67年からの4年連続を含む通算7度の首位打者獲得。76年に巨人移籍後も第39代四番打者として126試合に四番で出場している。中距離打者を自認していたが通算504本塁打は歴代7位タイ。四番にふさわしい「強打者」だった。

ロッテ・落合博満 ロッテ時代は優勝と無縁の三冠王


落合博満[内野手]1979-1986


【球団在籍時成績】8年=849試合、954安打、242本塁打、659打点、打率.332

 三冠王を3度獲得したのはNPB史上唯一で、いずれもロッテ時代。1985、86年の「2年連続50本塁打」もほかにアレックス・カブレラ(西武)しか達成していない。ロッテ時代の落合博満こそ最強の四番だったと評する人は、今でも多い。落合にとって不運だったのは、打者としての全盛期が西武ライオンズの黄金時代と重なり、いくら打っても投手力で劣るロッテではリーグ優勝を経験できなかったこと。それでも影響力は大きく、一軍に定着した80年から86年までの7年間でロッテは4回Aクラスになったが、落合を放出した翌87年からの7年間では5位3回、最下位4回と暗黒時代に。ロッテは落合の大きな穴を埋められず、長期低迷を余儀なくされた。

阪急・ブーマー 剛と柔を併せ持つ最強助っ人


ブーマー[内野手]1983-1991


【球団在籍時成績】9年=1019試合、1276安打、251本塁打、804打点、打率.323
オリックス・ブレーブス、オリックス・ブルーウェーブにも在籍

 本名は『グレゴリー・デウェイン・ウェルズ』も“ブームを呼ぶ男”として登録名を『ブーマー』に。1983年に来日し、2年目の84年には打率.355、37本塁打、130打点と外国人初の三冠王に輝き、阪急最後のリーグ優勝に貢献した。打球飛距離は群を抜いていた一方で優れた選球眼を兼ね備え、柔らかいスイングで軽打することも。本塁打王は三冠王を獲得した84年のみだが、87、89年に打点王、89年に首位打者のタイトルが、単なる長距離打者ではないことを物語る。身長200cm、体重100kgの巨体から強烈な打球を放って登録名の由来のとおり日本プロ野球界を席巻。日本10年間で猛打を振るい、通算打率.317、1413安打、277本塁打、901打点は“最強”の称号にふさわしい。

西武・清原和博 チームに勝利を運ぶ無冠の帝王


清原和博[内野手]1986-1996


【球団在籍時成績】11年=1403試合、1353安打、329本塁打、915打点、打率.277

 初の四番は1986年10月7日ロッテ戦。高卒新人の背番号3は6回、川崎球場左翼ポール際に31号、59年桑田武(大洋)に並ぶ新人最多本塁打記録を放った。同年、第8戦まで突入した広島との日本シリーズでは全試合に四番として出場。しかも1戦目に自打球を左足に当て親指を亀裂骨折しながらフル出場で打率.355をマークして日本一に貢献した。その後も黄金時代の四番として君臨。在籍11年間で打撃3部門のタイトルを獲得できなかったが、その批判に対して森祇晶監督は「それは清原がどれだけチームの勝利を優先した打撃をしてくれたことを知らん人。状況に応じて右打ちもしてくれ、本当に助けられた」と反論した。チームに勝利を運ぶ最高の四番だった。

楽天・山崎武司 恩師との出会いで打棒復活


山崎武司[内野手]2005-2011


【球団在籍時成績】7年=908試合、820安打、191本塁打、568打点、打率.252

 1996年に本塁打王を獲得するなど、中日、オリックス在籍時の18年間で211本塁打を記録したスラッガーだったが、2004年限りでオリックスを戦力外に。一度は現役引退を考えるも、田尾安志監督の熱烈なオファーを受け、新規参入の楽天へ入団した。田尾監督の下では打撃をイチからつくり直し、野村克也監督からは配球面、打席での考え方を学ぶと打棒が復活。07年には39歳にして43本塁打、108打点と2冠に輝いた。「配球を読む打撃スタイル」はその後も威力を発揮し、09年は39本塁打、107打点。主砲として球団初の2位進出に貢献した。最後は中日に復帰し、通算27年の現役生活で403本塁打。うち、楽天在籍7年間で架けたアーチは約半数の191本。仙台の地で、野球人生を一変させた。

近鉄・中村紀洋 「いてまえ打線」の象徴的存在


中村紀洋[内野手]1992-2004


【球団在籍時成績】13年=1383試合、1294安打、307本塁打、916打点、打率.267

 左足を開いたオープンスタンスにバットを上段に掲げてヘッドを投手側に倒した独特の構えから、足を大きく上げてタイミングを取る。打ったあとにバットを放り投げるフォロースルーが代名詞だった。手首を柔らかく使いバットコントロールも絶妙。長距離砲だったが広角に打ち分け、ミート能力も高い。同じ右打者の落合博満にあこがれ、VHSのビデオテープが擦り切れるほど何万回も落合の打撃フォームを見て研究した。フルスイングから放たれる打球は強烈。優勝した2001年9月24日の西武戦(大阪ドーム)で、9回にライバルの松坂大輔から右翼席へ逆転サヨナラ2ランを放った一撃は印象深い。今は亡き近鉄「いてまえ打線」の象徴的存在だった。
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