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広島・達川光男 “カープ愛”回想録「(幼少期は)ずっとBクラス。そのカープが、まさか優勝するとは」

 

地元・広島出身で、黄金期の投手王国を支えた名捕手。大学2年生だった1975年、優勝へと練習に明け暮れた現役時代。幼少期から身近だったチームへの思いを、“カープ愛”たっぷりに回想する。
取材・構成=相原礼以奈 写真=BBM

1984年の日本シリーズ第7戦で勝利し日本一に。完投勝利の山根和夫氏と抱き合って喜ぶ達川氏


「あのカープ」が優勝


――1975年は、東洋大の2年生。広島の優勝を、どのように見ていましたか。

達川 ちょうど練習が終わってテレビをつけたら、まだ広島対巨人をやっていたので、ユニフォームのままでそれを見ていて。2年生だったからね、1年生だったらそんなことできなかったけど。それで、「カープが優勝したな」と。意外と大学や社会人までの現役選手って、野球は好きで、どこのチームのファンというのはあるけど、熱心に見るというよりは自分のことで精いっぱいなんですよね。高校時代も部活動で帰りが遅いので、テレビでプロ野球の生中継を見ることもあまりなかったです。

 ちょうど長嶋(長嶋茂雄)さんが巨人の監督をされていて、まぁ私も広島ファンだったけど、長嶋さんのファンでもありましたね。やっぱりかっこいいなという感じでした。長嶋さん、王(王貞治)さんというのは、やっぱすごいから。現役時代から熱狂的な感じでニュースになっていて、王さんが5試合でもホームランを打たんかったら、長嶋さんがエラーでもしようもんなら、大変なことだと。活躍して騒がれるより失敗して騒がれるような時代でしたよね。だから、あこがれを持っていた。広島が、そのジャイアンツにも勝って優勝したかという印象でした。

――地元球団のカープと、子どものころはどう関わってきましたか。

達川 親父が野球好きだったから、新聞を見たりして、ジャイアンツと25ゲームぐらい差がついていて最下位でも、「25連勝すれば優勝するな」とか、もう訳の分からん計算をしていたよね。27試合くらいしか残っていないのに。相手があるから勝ったり負けたりで、優勝の可能性はほとんどないのに、これ全部勝てばいいんじゃないかとか言って(笑)。今でも思い出します。

 小学校のころには自転車で、旧広島市民球場に通っていました。特にオープン戦なんかは・・・

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