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長嶋茂雄 背番号3の記憶

<ミスタージャイアンツの証言者>槙原寛己 1994年10月8日 同率首位最終決戦 忘れていたプレゼント

 

この投手の存在なくして長嶋監督の日本一はなかっただろう。1994年は12勝を挙げ、日本シリーズでも2勝でMVPの大活躍。現役生活20年の最後の9年間を“ミスター”とともに過ごした。「10.8」決戦やバラの花束慰留、監督からの言葉など思い出は尽きない。
写真=BBM

現役最後のマウンドとなった2001年9月30日の横浜戦[東京ドーム]。長嶋監督[左]と同じタイミングでユニフォームを脱いだ


「勝つ!」の3連発


 中日との「10.8」決戦を明日に控えた夜、宿泊先の名古屋で監督の部屋に呼ばれた。すでに先発は言い渡されて、心の準備はできていた。2回途中の早過ぎる降板となって責任を果たすことはできなかったが、その悔しさを晴らすように日本シリーズでは快投。東京ドームの第2戦と第6戦に先発し、西武打線を封じ込めて2試合ともに完投勝利。長嶋茂雄監督に初の日本一をプレゼントした。

 自分が「10.8」の先発だろうなと思ってからは、ちょっと嫌な気持ちにもなりましたけど(笑)、こういう状況になってしまっても、結局は自分たちのせいですからね。あのシーズンは独走で優勝すると思っていたら、後半に入って失速して、だんだんと(優勝も)怪しくなってきて……。たぶん安心してしまったんでしょう。チーム全体に油断みたいなものがあったのかもしれません。追い上げられて、じゃあそこからとなっても、なかなか力を入れられなかった。

「10.8」の前夜に長嶋監督の部屋に呼ばれて「明日は頼んだぞ。後ろには斎藤(斎藤雅樹)も桑田(桑田真澄)もいるから、行けるところまで行ってくれ」と言われました。3人以外は投げさせないからという言い方。この1年間、お前たち3人(が中心)で戦ってきたんだから、お前たちで完結させるんだと。ただ、僕のあとに桑田も呼ばれたみたいですが、斎藤は呼ばれなかった。1日前の試合に先発で投げていましたから(6回、112球)、できれば斎藤は投げさせたくなかったから呼ばなかったんでしょう。槙原-桑田がベストだったはずですけど、僕が2回途中で降板してしまったから、結果的に斎藤も投げることになった。

 試合もそうですが、ホテルを出発する前のミーティングが・・・

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