阪神は2リーグ制以降、7回優勝しているが連覇の経験はない。Vイヤーはそれぞれの年に特徴があり、チームカラーは全部異なると言っていいだろう。ここでは各年の記録の数字を比較し、「どういうチームだったか」という特徴を分析し、「最強チームはどの年?」と考えたい。 文=落合修一(編集部) 【攻撃力1】低打率だった1960年代。85年はご存じ、猛虎打線
1960年代の2回の優勝時、チーム打率はいずれもリーグ5位。「投高打低」の傾向が強い時代だったとは言え、62年の阪神のチーム打率.223はセ・リーグ平均打率.231より8厘も低く、チーム打率1位の
中日の.249とは大きな差をつけられた。チーム得点386もリーグ5位で1試合平均2.9点。3点にも満たなかった。
打力は64年に多少改善されたが、チーム打率.240はリーグ5位で変わらず。リーグ1位の大洋のチーム打率.255から1分5厘とやはり離されている。
それでも1試合平均得点が3.5と2年前より進化した原因は、チーム本塁打が64から114、チーム盗塁が68から97、チーム犠打が68から82へと増加したこと。と言ってもリーグ内の順位では本塁打は5位から4位タイになったが、盗塁は2位タイから5位に下がった。それでも単打が続くのを待つだけでなく、長打、盗塁、犠打と多彩な攻撃パターンを用いたことが伺える。
62年に114試合(打率.232)に出場した
三宅秀史は64年に35試合(打率.185)、同じく藤本勝巳は121試合(110安打)から83試合(50安打)、
並木輝男は125安打(打率.290)から91安打(打率.230)とベテラン勢が成績を落としたが、代わりに
遠井吾郎、
藤井栄治と成長し、穴を埋めた。そしてこの年の打者MVPと言えるのが、大毎(現
ロッテ)から移籍1年目の
山内一弘。打率.257ながら31本塁打、94打点はいずれもチームトップ。四番打者として阪神の2年ぶり優勝をけん引した。

山内一弘 1964
次の優勝は21年後、85年。ここで一気に変わる。このときの記憶があるファンにとっては改めて言うまでもないが、85年の優勝は打って、打って、打ちまくっての勝利だった。
伝説の「バックスクリーン3連発」に代表されるように、三冠王の
ランディ・バースからの
掛布雅之、
岡田彰布のクリーンアップトリオに一番打者の
真弓明信をプラスした4人が「3割・30本塁打」をクリアした超・強力打線。チーム219本塁打は2位の
広島の160本に59もの差をつけ、セ・リーグ断トツ。1試合平均5.6得点も当然リーグトップで、62年の優勝時の2.9点と比較するとほとんど2倍だった。
と言っても、本塁打だけで点を取ったのではない。例えば真弓の32二塁打はリーグ3位タイ。チーム141犠打は当時のセ・リーグ記録で、犠打数の個人上位は
平田勝男、
北村照文が各25、
弘田澄男23、
木戸克彦18。そして得点圏打率はバース.392、平田.391、岡田.377とセ・リーグ規定打席以上のベスト3を阪神勢が独占した。トップバッターが二塁打などで出塁しまくり、送るべき場面ではきっちり送って、チャンスに強い中軸が走者をかえす。中軸の打者が塁上に残ったら今度は平田がかえす。まさに・・・
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