週刊ベースボールONLINE

球界ニュースフラッシュ

東海大野球部顧問・原貢さんが死去

 

訃報
夏の甲子園2度制覇、多くの選手を育てたアマ球界の名伯楽

 巨人原辰徳監督の父であり、三池工高、東海大相模高、東海大で監督を歴任したアマチュア野球界の名指導者・原貢氏が、5月29日午後10時40分、心不全のため神奈川県相模原市内の病院で死去した。79歳だった。

 貢氏は5月4日に同市内の自宅で倒れ、緊急入院。心筋梗塞と大動脈解離を併発し、集中治療室(ICU)に入っていた。同5日には名古屋で中日3連戦を戦っていた原監督が一時チームを離れて病院を訪れるなど、孫の巨人・菅野智之をはじめ、家族や多くの教え子たちが回復を祈ったが、その願いは届かなかった。

 社会人の東洋高圧大牟田(現・三井化学)でプレー後、福岡・三池工高の監督として1965年夏の甲子園で初出場初優勝。これは工業高校としては初の甲子園制覇で、不況にあえぐ炭鉱の町・三池に歓喜をもたらした。その後、三池工高での手腕を高く評価した東海大創設者・松前重義氏から誘われ、東海大相模高の監督に就任すると、70年夏の甲子園では同校を初の全国優勝に導くなど、9度の甲子園出場で、63年創部とまだ歴史の浅かった同校を全国屈指の強豪校へと育て上げた。

▲1970年夏の甲子園で東海大相模高を初優勝へ導き、インタビューを受ける原貢氏



 74年の長男・辰徳入学後は親子鷹と注目を集めたが、「『力が5分5分なら補欠。6分4分でも補欠。7分3分なら考える』と言われた。事実、非常に厳しい指導をいただきました」と原監督が語るように、一切の親子関係を断ち、のちに巨人の四番を打つ名プレーヤーに育て上げた。なお、原監督は1年からベンチ入りを果たし、74年夏、75年春夏、76年夏と4度の甲子園出場を果たしている。

 77年、息子の東海大進学と時を同じくして同大監督に就任。首都大学リーグでは22シーズンに渡って指揮を執り、13度のリーグ制覇を果たした。96年限りでユニフォームを脱いでからも、東海大系列校野球部総監督、東海大野球部顧問として後進の指導にあたり、孫の菅野が巨人入団後は東京ドームにもたびたび足を運んでピッチングをチェックしていた。

▲77年に東海大監督に就任後も、情熱的な指導は変わらず。特に長男・辰徳[写真右から2人目]には人一倍厳しく接した



 妥協を許さない熱血指導で、上田卓三(三池工→元南海投手)や遠藤和彦(東海大→元大洋投手)などプロ野球選手のみならず、岩井美樹(東海大→現・国際武道大監督)や村中秀人(東海大相模高、東海大→現・東海大甲府高監督)などのアマ指導者ら多くの人材を育てるなど、日本球界に大きな功績を残した指導者であった。

 なお、通夜、告別式は近親者のみで執り行い、後日、7月14日に東京ドームホテルにて「お別れの会」が行われる予定だ。

▲指導の一線から退いた後も、後進の育成に尽力した


PROFILE
はら・みつぐ●1935年3月30日生まれ。佐賀県出身。鳥栖工高-東洋高圧大牟田(現三井化学)では三塁手、遊撃手。三池工高の監督となり、65年夏に甲子園初出場初優勝。翌66年から東海大相模高監督となり、9度の甲子園出場で夏優勝1度(70年)。77年より東海大監督に転じ、再び東海大相模高監督、東海大監督。96年限りでユニフォームを脱いでからも、東海大系列校野球部総監督、東海大野球部顧問を歴任した。甲子園通算成績は9度出場17勝7敗(優勝2回)、首都大学リーグ通算22シーズン262試合192勝68敗2分(優勝13回)。
HOT TOPICS

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング